九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

北朝鮮の核実験にどう対処するのか?  

2006年10月04日 08時34分59秒 | Weblog

北朝鮮がミサイルのあとは核実験と、表明。
さて、平和主義の我々としては、これにどう対処すべきか?
保守系さんは、すでの答えを持っているので、
お聞きするまでもありませんが、
我々は、果たして答えを持っているのでしょうか?
持っていなければ、保守系さんの勝ちですが・・・・

                      落石


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テロを○○と読み替えたら  落石

2006年10月03日 12時20分42秒 | Weblog

新聞を読むときに、テロを民族自立と読んだら
どうでしょうね?

その他、どんな読み替えが楽しく、
別の側面が見えてくるでしょうか?



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保守系論客の歴史欺瞞・偽造を切る その1 千里眼

2006年10月03日 11時10分35秒 | Weblog
「歴史は当時の人々の熱い想いからしか解釈しえない。単なる史実の羅列ではない」

 この短い文言はこのブログのなかでも2・3回引用されているので、皆さんの記憶にも残っていることと思う。小堀圭一郎氏がある論文の中で使用した語句だそうであるが、その論文を私は目にしたことはない。しかし、しばしば彼らの論文に使われているので、この語句は私の印象にも強く残っている。
 さすがに文学評論家の小堀氏の造語だけに、きわめて文学的で一見正しい名文のように見える。しかし、そんなものではないのだ。はっはり言えば、極めて悪意に満ちた文章である。意図的に歴史学を矮小化して攻撃しているのだ。 
 どういう文脈のなかで使われたのか知らないが、「歴史」は「単なる史実の羅列ではない」という語句は、ここでは歴史学全般を指して批判していると受け止めよう。歴史学が「単なる事実の羅列」ではないことを筆者は、よく承知しているはずだ。そんな歴史学はありえないことも承知しているはずだ。そのうえでのこの表現である。史料を丹念に分析して客観的に史実を明らかにしていく歴史学の立場を彼は否定したいのだ。それは彼の「歴史解釈権」の立場を否定しているからである。この点をきちんと説明していく長くなるので省略する。
 ただ、私が歴史学に興味を持つようになったきっかけについて触れておきたい。古典的名著とされる石母田正の「中世的世界の形成」を読んだときの感動を私は忘れることができない。東大寺正倉院所蔵の荘園関連文書を克明に分析して、伊賀の黒田の荘のなかで、在地の土豪が武士に成長していく過程を明らかにした名著である。次の時代の担い手である武士の形成過程をリアルに描いた名著である。戦中・戦後の苦しい生活のなかで、コツコツとこれだけの研究を続けていたという彼の学究的姿勢が感動をさらに大きくしたのだとは思うが。

 「当時の人々の熱い思い」と関連しては、具体的に事例を取り上げたほうが分かりやす
い。一つの歴史的事例を挙げて考えよう。9.11の同時テロの後、アメリカ人の間に、テロ行為に対する怒りが燃え上がり、テロ撲滅を叫ぶブッシュの支持率は高騰した。イラク戦争を支持するアメリカ国民の世論は圧倒的だった。下院では一人の女性議員を除いてこの戦争を支持した。
 このアメリカ国民の「熱い想い」からイラク戦争をどのように「解釈」するのか、と問い掛けたら「歴史解釈権」の立場に立つ彼らは、何と答えるであろうか。見ものである。「イラク戦争を支持する国民の『熱い想い』が圧倒的だったのだから、イラク戦争は正義の戦いである」とでも返ってくるのだろうか。
 こうした立場からは、開戦についてのアメリカ政府の挙げた理由が、偽造された資料に基づくものであった、また誤った分析に基づくものであったという歴史事実は無視されるであろう。さらには「熱き想い」そのものがどのようにして形成されたのかという客観的分析も必要なくなるであろう。「歴史解釈論」というのはそんな程度のものなのである。さらに言えば、その立場からの「解釈」は、史実を無視した「歴史の偽造」にしかならないのだ。

 パターンNO.1 「批判対象を意図的に矮小化して攻撃する」「矮小化のレトリック」
   次回以降の投稿でも、このように彼らの論理組み立ての特徴を類型化して整理していきたい。
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江戸の「愛国俳諧師」            戦歌の訪ね人

2006年10月02日 23時51分40秒 | Weblog
  君が世や風おさまりて山ねむる
  これからは大日本と柳かな
  君が代は乞食の家ものぼりかな
  花おのおの日本だましい勇ましや
  桜さく大日本ぞ大日本
  日の本や天長地久虎が雨
  日本の外が浜まで落穂かな

 この神国日本を讃える江戸の俳諧師は誰だと思いますか。
 彼はまた、次の様な句も作っています。

  春風の国にあやかれおろしや舟
  日本の年がおしいかおろしや人
  梅が香やおろしやを這わす御代にあふ

 彼は、文化元年1804年(42才の時)にロシア使節レザノフが長崎に来航したニュースを江戸で聞き上記のような俳句を作ったのです。
 「愛国心」溢れる俳句ではありませんか!!

 この「愛国」の句を記した俳人は「やれ打つな蝿が手をすり足をする」「我と来て遊べや親のない雀」等、子供や小動物に優しい眼差しをおくる句の作者「小林一茶」です。
 最近、岡松正剛氏の「小林一茶句集」の書評でこの事を知って大変に驚いた次第です。

 一茶は1827年六十五歳でこの世を去っていますが、この年の前後に「異国船打ち払い令」や「シーボルト事件」が起こっています。
 江戸時代の俳諧師も時代の動きには決して無関心ではいられなかったのでしょうね。
        
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スリランカに「9条の会」ができました。   九条 ひかる

2006年10月02日 10時30分43秒 | Weblog
「スリランカ九条の会」が結成されました。第二弾です。
 前の投稿で、高齢者大会の様子を紹介していませんので、紹介させてい
ただきます。一参加者のコメントですから、正確さを欠くかも知れません
が、すこしでも早くお知らせしたいと思い、書きましたので大きな訂正が
ありましたら、お詫びとともに再度お知らせするつもりです。

 10月1日に第8回あいち高齢者大会が名古屋市公会堂で開催されました。
多くの人が参加され、年金制度や高齢者にやさしい街づくりについて話し
合われました。
 会場は愛知県内から1500名ほどの人が参加され、それぞれの分科会
では小泉改革への批判、高齢者の暮らしに根ざした切実な要求が涙ながら
語られました。
「平和を守るために」の分科会では、高田公子(新日本婦人の会会長)、
西本伸(愛知平和委員会元理事長)、堀三郎(被爆者団体副理事長)の三
氏がパネリストとして話されました。
 高田さんは、日本の女性の活動と米英における共謀罪運用と弊害を。
 西本さんは、アジア各国の核廃絶の運動とスリランカ「九条の会」結成
のことを。
 堀さんは、被爆者立場からの活動と国の支援の充実を訴えました。
 三氏が共通して話されたのは、憲法九条の大切さと世界に九条の考えが
広がっていること、九条への高い評価があることでした。

 会場からは、憲法を守るために行っている様々な運動が紹介され、名東
区では、連日宣伝カーを走らせ、「9条をまもろう、平和をまもろう」の
訴えをしているそうです。
 また、「スリランカ9条の会」代表のN・ベナット・クレーさんも会場か
ら特別発言をされました。
 以下に会場で配布された呼びかけ文を紹介します。

(呼びかけ文)
 「スリランカに9条の会が結成されました」
 日本で日夜平和のためにご活躍のすべての人々に心からの敬意を表す
るとともに素晴らしい報告をしたいと思います。
 インド洋の真珠といわれるスリランカ(スリランカ民主社会主義共和
国)に、日本国憲法の平和的理念を支持し、賛同する「スリランカ9条
の会が結成されたことを、喜びと熱い連帯の心を持ってご報告します。
 すでに、オーバビー博士が提唱してつくられた「9条の会アメリカ」
や日系カナダ人が中心になって結成された「バンクーバー9条の会」が
あることを伺いました。
「スリランカ9条の会」は、「9条は世界の宝」という言葉に新たに意
味を加えることとなるでしょう。
 スリランカ国民は、日本国憲法を日本の国内法規であるとともに、日
本国及び日本国民が、国際社会に対して行った誓約であると考えていま
す。
 侵略戦争と植民地支配への誠実な反省に基づき、世界、とりわけ甚大
な被害を与えたアジア・太平洋地域の国々と人々に対して、平和国家を
再生し、世界平和のために努力することを誓った意思の表明であると捉
えています。
 そこで、1951年9月のサンフランシスコ講和会議において、セイロン
(現在のスリランカ)のスリ・ジャヤワルデネ全権大使(後の大統領)
は、「憎しみは憎しみによってはあがなわれない。愛によってのみ消し
去ることができる」という釈尊の言葉を引用して、日本への賠償を放棄
するとともに、他の連合国にも賠償要求をしないように求めたのです。
 このことは、日本の戦後復興に計り知れぬほどの大きな寄与になった
と思います。
 そこでスリランカの人々は、日本国憲法の前文と9条に明記されてい
る平和の理念に変更を加えることは、単に日本の国内問題ではなく。世
界に対する誓約違反であると考えます。
「スリランカ9条の会」は、日本国政府と日本国民に対して、国際社会
に対する誓約の誠実な履行を要求するとともに、平和憲法を護るために
努力しているすべての人々・団体・組織に連帯を呼びかけます。
 私たちが8月15日という日にこの会を設立した意味を深くご理解くだ
さい。私たちからの呼びかけを、FAXやその他の手段でお受け取りに
なった方は、できるうる限りの多くの方にお知らせくださることをお願
いいたします。
               スリランカ9条の会代表
                  N・ベナット・クレー


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「スリランカ」にも九条の会が出来ました。    九条ひかる

2006年10月02日 09時59分45秒 | Weblog
 スリランカ9条の会が8月15日に結成されたようです。
「スリランカ9条の会」代表のN・ベナット・クレーさんがあいち高齢者
大会で特別発言をされました。
 以下に会場で配布された呼びかけ文を紹介します。


2006.15.AUG.
 
スリランカに9条の会が結成されました。
 
 日本で日夜平和のためにご活躍のすべての人々に心からの敬意を表す
るとともに素晴らしい報告をしたいと思います。
 インド洋の真珠といわれるスリランカ(スリランカ民主社会主義共和
国)に、日本国憲法の平和的理念を支持し、賛同する「スリランカ9条
の会」が結成されたことを、喜びと熱い連帯の心を持ってご報告します。
 すでに、オーバビー博士が提唱してつくられた「9条の会アメリカ」
や日系カナダ人が中心になって結成された「バンクーバー9条の会」が
あることを伺いました。
「スリランカ9条の会」は、「9条は世界の宝」という言葉に新たに意
味を加えることとなるでしょう。
 スリランカ国民は、日本国憲法を日本の国内法規であるとともに、日
本国及び日本国民が、国際社会に対して行った誓約であると考えていま
す。
 侵略戦争と植民地支配への誠実な反省に基づき、世界、とりわけ甚大
な被害を与えたアジア・太平洋地域の国々と人々に対して、平和国家を
再生し、世界平和のために努力することを誓った意思の表明であると捉
えています。
 そこで、1951年9月のサンフランシスコ講和会議において、セイロン
(現在のスリランカ)のスリ・ジャヤワルデネ全権大使(後の大統領)
は、「憎しみは憎しみによってはあがなわれない。愛によってのみ消し
去ることができる」という釈尊の言葉を引用して、日本への賠償を放棄
するとともに、他の連合国にも賠償要求をしないように求めたのです。
 このことは、日本の戦後復興に計り知れぬほどの大きな寄与になった
と思います。
 そこでスリランカの人々は、日本国憲法の前文と9条に明記されてい
る平和の理念に変更を加えることは、単に日本の国内問題ではなく。世
界に対する誓約違反であると考えます。
「スリランカ9条の会」は、日本国政府と日本国民に対して、国際社会
に対する誓約の誠実な履行を要求するとともに、平和憲法を護るために
努力しているすべての人々・団体・組織に連帯を呼びかけます。
 私たちが8月15日という日にこの会を設立した意味を深くご理解くだ
さい。私たちからの呼びかけを、FAXやその他の手段でお受け取りに
なった方は、できるうる限りの多くの方にお知らせくださることをお願
いいたします。
               スリランカ9条の会代表
                   N・ベナット・クレー

               
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もうひとつの9・11  へそ曲がり

2006年10月02日 07時25分46秒 | Weblog
『「9・11」の謎 』という記事を紹介してきました。まだ続きがあるのですが、私が定期購読している「平和新聞」(日本平和委員会発行)の最新の記事の中に「もうひとつの9・11」というコメントがあったので、そちらを先に紹介します。
  
     見出し 1 : ガンジーの非暴力
     見出し 2 : もうひとつの9・11

「9月11日はどういう日?」と問われれば、アメリカでの同時テロ、それに続く「テロとのたたかい」を旗印にしたアフガン戦争、そして世界へのテロの広がりという、暴力の悪循環の始まりと答えるだろう。
 しかし、9月11日はもうひとつ別の意味で、戦争と平和の問題にとって深い関連のある日である。
 
 南アフリカのヨハネスブルクで約三千人のインド系移民労働者が集まった集会で、ガンジーが白人の植民地主義支配と非暴力・不服従のたたかいをよびかけたのが、ちょうど百年前、1906年9月11日だった。
 今年インドやイギリスの新聞には、このガンジーの非暴力(アヒンサー)の思想についての記事がよく見られた。
 百年前の9・11に、ガンジーは非暴力の抵抗運動の行く先には艱難辛苦が待ち受けていることを率直にのべた。
「最悪の事態を覚悟しなければならない。ここにいる三千人を数えるわれわれすべてが誓ったと考えてみよう。われわれは投獄されるであろう。非難攻撃されるだろう。腹をすかし、暑さや寒さに苦しむだろう。過酷な労働を強いられるだろう。鞭打たれるだろう。罰金を取られるだろう。財産は競売にかけられるだろう。貧困のきわみにほうりこまれるだろう。強制送還されるだろう。牢獄で飢餓などの困難にさらされ、病気になったり死んだりする人もでるだろう」
「しかし、この人間的試練に耐えるなら、終わりは近い。私は勇気と確信を持って宣言する。ほんの一握りの人数でも自らの誓いに忠実であり続けるならば、たたかいの終わり方はただひとつしかありえない。それは勝利である」

 戦後、インド独立にさいして、ヒンズー教徒と対立するイスラム教徒はパキスタンを建国し、その後も両国の対立は続いている。しかし当時、ガンジーは自分の支持者にこう述べたという。
「私はイスラム教徒であり、ヒンズー教徒であり、キリスト教徒であり、ユダヤ教徒でもある。みなさんも同じだ」
「殴られても、花束をもらったような心で敵対者と接する」とまでいうガンジーの徹底した非暴力主義は非現実的だという見方もある。
 しかし、非暴力は暴力にまさる、核兵器にもまさるというガンジーの言葉をブッシュ大統領やブレア首相、そしてわが国の憲法改悪論者に聞かせたい、読ませたい。

「『目には目を』ということを続ければ、しまいには全世界が盲目になってしまう 」
「人類はいつの時代も、『自衛』という名のもとに暴力や戦争を肯定してきた。しかし戦争に勝とうと思えばナチよりも残忍にならなければならない。憎悪に出あったとして憎悪でこたえても憎悪が増し、傷口を広げるだけである」 

  (06年9月18日記 巌哲)


 私はガンジーの生き方、とりわけ「非暴力の抵抗運動」の考えに共感します。彼の足元に辿り着くことも出来ませんが、少しでも近づければと願っています。

 午後、入院します。また帰ってきます。
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へそ曲がりさん、御身体大事に(保守系)

2006年10月02日 05時08分04秒 | Weblog
久し振りにこのブログを見ましたら、へそ曲がりさんの赤旗からの記事が連載されていました。正直言って、相変わらずだなと思いました。
安倍総理の政治姿勢を外国のメディアを使って、叩いていましたが、それがなんなんでしょうか。
安倍さんが戦後生まれで、あの安保騒動の岸の孫だとか、それはそれで意味があるのですが、それこそ国会で承認された総理です。
あの安倍首相がお嫌なら、殺すか、今度の参議院選挙で敗北させて辞任の追い込めばいいのです。後者は、文科系さんの戦前・戦後民主主義の手続きなんでしょう。
このブログにお付き合いして一年になります。
私も勉強になりましたが、どうしても私が理解しがたいのは、私もそうだと言われれば、そうかなと思いますが、明治維新前後から大東亜戦争に至る経緯とを分断している点です。くどいですが、歴史は連続しています。
ある一点(時期)をとってこれこそ帝国主義で軍事国家だ侵略国家だと断じても、おかしいのです。もうこの点を何度も言ってきましたが・・。
日本が軍事優先の国家、帝国主義の国家になったとするなら、なった経緯を考慮すべきではないのでしょうか。
今回私が行く国々でも、まさに大陸国家としての歴史の中で生きてきた国です。
チェコでもつい前はチェコスロバキヤでした。
私は思うのですが、もしもこれらの国々の人達がこのブログで主張されているへそ曲がりさんや守るさんなどの中味を見たなら日本人は、アホな集団というか、狂人の集団はないの?と思うでしょう。
軍隊がいらない?本当にそうなの?
馬鹿らしくなって、このブログに登場もしないでしょう。一体軍隊の居ない国がこの世界の何処にあるのでしょうか?教えて下さい。
こんなにも謝罪を繰り返している日本に何故、シナや北朝鮮は核弾頭ミサイルを向けているのでしょう。
話せばわかる相手ですか?彼等は・・。拉致した家族を何故帰してくれないのですか?九条を守る?何を守るのですか。
具体的に言って下さい。
結局私達は、戦後日本の良い湯加減のお風呂に浸かっているだけの偽善者の集団ではないのでしょうか。

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安倍政権と世界の報道 3  へそ曲がり

2006年10月01日 07時45分38秒 | Weblog
「しんぶん赤旗」30日付の記事です。併せて、米下院外交委員会公聴会でのハイド委員長とラントス議員の“靖国史観”批判発言の詳細について転載します。

1 マレーシア  「靖国・歴史問題での今後の対応に注目」
 
 マレーシア各紙は、安倍新政権について社説を掲載し、中国、韓国との関係改善を口にする安倍氏の靖国神社参拝や歴史問題での今後の対応に注目しています。
 中国語紙・南洋商報28日付社説は、「国際社会の最大の関心事は、安倍氏が中日関係の修復に挑戦できるかどうかにある」とし、次のように述べています。
「安倍氏は靖国神社参拝は個人の問題であると強調し、参拝継続を示唆してる。『戦争責任については歴史家の判断にまかせる』と繰り返し述べ、あいまいな立場をとっている」「その一方で『主張する外交』と言い、平和憲法改定と米国との軍事協力強化をめざしている。これで果たして中日関係が前進するのだろうか?」
 英字紙ニュー・ストレーツ・タイムズ24日付社説は、「小泉前政権は平和憲法の改定に着手し、自衛隊への束縛をゆるめてイラク駐留軍への給油のためにインド洋に派遣した。歴史をゆがめる教科書も採択した」と指摘。「安倍氏は、目立たないが(小泉氏より)『国家主義者』だと伝えられる。第二次世界大戦中の日本の残虐行為の記憶を持つ人びとは、その言葉を聞くとまゆをひそめる」と述べています。
 同社説は「靖国神社参拝は、日本が自らの足元から正す問題である。安倍氏は、日本がかつての歴史を繰り返さないと改めて保障しなければならない」と強調しています。

2 タイ【ハノイ=鈴木勝比古】  「東アジア共同体に向け協力すべき時と強調」

 タイの英字紙ネーション29日付(電子版)安倍晋三新首相就任にあたって社説を掲げ、安倍首相が靖国神社参拝をやめて中国との関係を改善し、東アジア共同体に向けて協力するよう呼びかけました。
 社説は「彼(安倍首相)は過去を気にかけず、日本をより強い国にしようとしている。これは日本が過去と決別することである」と指摘。安倍氏があいまいさを残していることについて「日本では許されるかもしれないが、地域との関係ではより有害である」と述べ、「日本の立場を率直、誠実に説明する」ことを求めています。
「アジア全体は日本が強大になることに積極的な見方をしていない。日本の指導者による靖国神社参拝は論争の種であり、韓国と中国では反日感情を引き起こしている」と述べています。
 そして「もし安倍氏が小泉首相の慣習を引き継ぎ、悪名高い戦犯を含む日本の戦死者を参拝し続けるなら、日本の対外関係に取り返しのつかない損害を与えることになろう」と警告しています。
 社説は最後に、「日本にはもはや諸隣国に誤解を与えている余裕はない。地域の強化と東アジア共同体に向かって協力すべき時である」としています。


 米下院外交委員会公聴会でのハイド委員長とラントス議員の“靖国史観”批判発言の詳細

1 ヘンリー・ハイド委員長  「遊就館が教える歴史は事実に基づかない」

 日本では戦没者に敬意を表するため、首相が8月15日に神社を参拝した。それは日本の近隣諸国の間で若干の懸念を引き起こした。その神社は有罪となった戦犯たちにも敬意を表しているからだ。
 ヨーロッパは論争的な過去を葬り去ることができたのに、なぜ東アジアはそうできないのか。ヨーロッパは戦争から復興して北大西洋条約機構(NATO)を結成し、欧州連合(FU)を設立して共通通貨ユーロさえ導入したのに、なぜ東アジアは基本的な安全保障と経済制度さえ欠如しているのか。ホローコースト(ユダヤ人大虐殺)を含む20世紀のヨーロッパの歴史はアジアの歴史に勝るとも劣らないほど悲惨だった。ヨーロッパ諸国は冷戦期、ソ連の脅威にたいして共同戦線を示すために元枢軸国と連携することができた。
 ヨーロッパが問題を抱えた過去を乗り越えようと行動している一方で、アジアではいつも「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のようだ。
 第二次世界大戦世代の一員として、第二次世界大戦中に何が起こったかの真実は、広く行き渡るだろうし、そうしなければならない。東京にある博物館(遊就館)が、アジアでの第二次世界大戦は西洋の帝国主義のくびきからアジアと太平洋の人々を解放するために日本が起こしたものだと若い世代の日本人に教えているということを知ったが、私の世代の者にとっては困ったことだ。
 私はちょうど韓国、フィリピン、シンガポール、ソロモン諸島を訪問したところだ。日本の占領中に記憶された悲惨な経験について率直に話す人はいたが、それらの国の人で、日本の皇軍を解放者として懐かしく記憶しているとわれわれの代表団に話す人は1人もいなかった。この博物館で教えられている歴史は事実にもとづいておらず、是正されなければならない。

2 トム・ラントス議員  「ナチス指導者に花輪をささげるようなもの」

(イラク戦争への強力など同盟国としての日本の役割を評価した後で)
 米日の今日の関係はかつてなく強固だが、米日の関係をこのまま自動操縦装置にしておくのは大きな誤りだ。われわれが共有する誓約と緊密な協力の歴史に照らしてみて、私は日本の強力な友人を自認しており、友人の間においては互いに率直に話をするのが義務だと確信している。
 日本が自らの過去に誠実に対処することができないでいることは、日本の国民にとって多大な損害であり、北東アジアにおける他の主要関係者を怒らせ、地域の緊張を激化させることにより米国自身の国益を損なう。
 日本の歴史健忘症のもっともひどい例が日本の首相たちによる靖国神社参拝である。第二次大戦の生き残りとして私は、なぜ日本の指導者たちが自国のために殉死した日本人たちに敬意を払いたいか完全に理解する。自由で民主的な国家の指導者であれば誰でもそうするであろう。
 しかし、第二次大戦をくぐり抜けたアジアと米国の生存者にとって、14人のA級戦犯が祀られている靖国神社への参拝は、ドイツでヒムラーやヘス、ゲーリング(いずれもナチス幹部)の墓に花輪を置くにも等しいだろう。
 日本の次期首相にに対する私のメッセージは非常に簡単だ。戦争犯罪人たちに敬意を表することは道徳的に破綻しており、日本のような偉大な国にとって恥ずべきことである。この慣わしは終わらせるべきである。
 日本政府はまた、南京大虐殺を否定し、日本の第二次大戦開始は他のアジア諸国を帝国主義から保護しようとしただけのことにすぎないと示唆している教科書を承認した。私はこうした修正主義の教科書がごく一部の学校でしか実際には使われていないと理解している。しかし、日本政府がそうした教科書の使用を承認したことは、北東アジアの諸国の心を傷つけている。 
 歴史を否定するものは、必ずそれを繰り返す。この行為(修正主義教科書の検定合格)も終わらなければならない。日本の右翼の超国粋主義者を除くすべての人々にとって、日本が自らの過去に率直に公然と向き合う意思・姿勢が最高の利益となることはきわめて明白だ。

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閑話休題 ”発達論をちょっと” その1  文科系

2006年10月01日 07時04分51秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
問題意識はこういうことでした。まず、その子自身の能動的活動というものが、「『ガリ勉でないのに勉強できるし、スポーツも音楽もできて、あの人得だなー』という人が、高学年から中学にかけて目立っていく、そういう子の原動力です」と。そして、さらにこう付け加えました。「これに言語力が備わっていけば鬼に金棒。言語力の正体って、これが意外に難しいんですけど」と。 こういう位置づけの中の言語力についてまとめます。

以下今回はこのような項目でまず、予備知識としての言語説明を進めます。①感覚と言語、②具体的言語と抽象的言語、③外言と内言、ということで。

1 感覚と言語
感覚(的知識)とは人間の内面の元素みたいなもの。出生直後は見えはしても意味のなかった視覚像などが一つ一つ意味を持っていくことです。「オッパイが(パパが)オッパイだ(パパだ)と分かるようになる知識」ね。もちろん視覚像を視覚だけで捉えるのではなく、オッパイをくわえた感じ、持った感じ、飲んだ味の感じ、そして見えた感じとしてのオッパイなどと、自分の五感を体験に総動員して捉えるものね。こういう感覚が豊かな子がまず、内面が豊かということ。
これが、五感を総動員してよく遊ぶというようなことを通じて、外界に積極的に働きかけるように育った子ほど生まれやすい。そして、この感覚が言語の基礎にもなっていく。「オッパイってこういう感じ」というのがあって、そこに「オッパイ」という言葉が冠せられるということ。大人は「パンってこんな感じ」を軽視して、「パン」という「言い方の約束」に拘ってしまうけど、そんなのオウムの「パン」と一緒で無意味です。周囲の全てに「(Aと呼ぶ物って)、こんな感じだ」が、豊かにある内面がまず豊かということですね。

2 具体的言語と抽象的言語
豊かな感覚的知識・知能が、言語的知識・知能の基礎になりますが、言語にも段階があります。前者は目に見え、手で触れるようなもの。後者はそうでないもの。中間もありますかね?
車、足などは、具体的な物だとはわかりますね。「物の名前」は具体的。走るとか、泣くとかの動詞にもまー具体的なものが多い。こういうのは3歳までで十分手に負えます。ところで、勇気、真善美、「善い」、「真実だ」なんて、触れないでしょう?「そして」、「だから」、「しかし」なんて「接続詞」はみんなすごく抽象的なものです。「あの子『可愛い!』」は、中間に見える?この「可愛い」、厳密には抽象的なんですが、使い方がかなり勝手でも良い言葉で、あの子と結びついてるから具体的? 
とにかくこういう抽象的言語がそのように正確にどんどん使えるのが小学生。中学年では見た物、やったことをどれだけずらずら書けても、良い作文とはいえません。名詞、動詞と接続詞「それから」だけの文章では、どれだけ多い記憶を書きつづってももうだめです。抽象的言語がいっぱい出てこないといけない。特に自分が感じたものを抽象的言語にしたり、自分の考え、推理、理解などを接続詞で繋いだりね。

3 外言と内言
外言とは、普通の喋り言葉のことで、誰にも分かります。しかし後者の存在は、ほとんどの人が知らない。自ら使ってきたのにです。厳密に難しく言うと、思考を進めるための言語です。その原形を述べれば分かってもらえる。小学校1,2年などで算数計算を喋りながらやる時期があるでしょう、あれです。「10繰り下がって、11から3を弾くからここは8で、繰り下げた所は10引いたのをよく覚えといて」というやつ。「自分で自分に言い聞かせる1人言葉」ね。だから「内言」と言う。内言は内言らしくやがて心、頭脳の内側で無意識に操作されて、外には出てこなくなる。「Aさん、さっきいたのにもういない。トイレにでも行ったかな?」とか、「昨日レジから2万円ばかり消えたみたいだから、これとこれとこれの可能性をよく見ていよう」などなど。
大人になって悩ましい複雑な問題の対策を考えようとする時、文字に書いたり、それを表にしたりして「整理していく」ことがあります。これは有能な人に多いですが、内言を内言らしく意識して使っているということ。直感的に簡単に答えを出さない。課題を全面的に見つつ、その修正、積み上げもしながら考え抜いていく。

                            (続く)


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