飛行機ばば・新幹線ばば H・Sさんの作品です
[保育園落ちた日本死ね]と書かれた匿名のブログが話題になり与党が大慌てしているが、私はこのブログに共感。よくぞ声を上げたと、若いママ達をほめてあげたい。こんな声が上がるぐらい働く母親の保育事情は厳しい。
孫の保育を手伝っていた十三年前と少しも変わらない現状に呆れた。
当時母親「娘」は大阪に住み、結婚後も仕事を続けていた。二千二年七月長女を出産。父親「娘婿」と二人での子育てを計画していたが、父親の方が、東京へ転勤することになった。
二千三年四月、孫娘は保育園に入園。母親の勤務時間に合わせるため、慣らし保育が始まった。最初は二時間。母親から離れて保育園で生活。保育園での生活時間を徐々に伸ばし、一日中保育園で集団生活が出来るよう、一か月をかけて訓練をする。この試し保育は、母親が取得した育児休暇で誰の手を借りず、一人で何とか乗り切った。
五月初め職場に復帰。母親はフルタイムで働く生活になった。生後八か月で集団生活を始めた孫娘は、免疫の機能が不十分な体にストレスを抱え込んだ。それ故、感染症の標的になり、体力を消耗。集団生活が出来ず、自宅待機で体を休める日々が続いた。
仕事を続けるために、母親は、実家を頼るしか道がなかった。実母である私に「赤ちゃんをお願い」と、出動命令の電話がかかってきた。
電話が来ると、リュックサックに衣類を詰め込み、名古屋から新幹線に飛び乗り、大阪まで駆けつける。孫娘の入園を契機に、私は、新幹線ばばがなった。
それから十年の間、三人の孫たちの保育を支援をする生活が続いた。
母親が東京転勤になり、父親は中国に単身赴任をした。
舞台は東京へと移った。老いた体に責任の重い役目を背負い、私は、新幹線ばばをなんとか勤めた。
当時、私のような新幹線ばばや、熊本、宮崎から飛行機で駆けつけ、孫たちの保育を担う飛行機ばばが何人もいた。気兼ねなく頼めるのは実母ということで、働く娘を助けるこの役割は実母が担っていた。
子供が、元気な時は保育園に預けて母親は働くことが出来るが、病気になると勤めを休んで母親が見守る。病後の幼児が、体力をつけるまで面倒を見てくれる病後保育が必要だ。この制度があれば母親がどんなに助かるだろうと、私は心から願っていた。保育園で親しく言葉を交わすようになった飛行機ばばも新幹線ばばも、同じ思いを持っていた。大阪でも、東京でも、必要に迫られた母親たちが、保育師の待遇改善を訴え、待機児童をなくしたいと、仲間を集め、署名を集め、役所に働きかけをしていた。
娘の家族が東京に住むようなって何年もたった頃。数少ない小児科医が、役所の委託を受けて病後保育を担うようになったが、人数に限りがあり一日三人で精一杯いう状況だ。
働く母親の子育てを支援する飛行機ばば、新幹線ばばは、現在でも大勢いるのでないかと、私は見ている。
一人の幼い子供を持つママのブログ発言が、国会で大問題になった。
「匿名での発言は、事実かどうか確かめようがない」と、安倍総理が切り捨てた。
「書いた本人が名乗り上げよ」と、ヤジも飛んだ。
現状が理解できていない安倍総理の切り捨て発言が、ママたちの反感を買った。
同じ思いを持っていた待機児童のママたち三十人が、
「保育園落ちたの私だ」と書いた紙を掲げ、国会前に集結、抗議の声を上げた。ママ達は、二万八千人の署名を集めて大臣に手渡す行動に出た。
自分の言葉で発言。仲間を作り行動を起こすようになったママたち。そのきっかけを作ったのが、一人のヤングママのブログの匿名発言だ。ブログの持つ力は大きいと、認識を改めた。
この国の政府は、一億総活躍だの、女性が活躍出来る社会にするとか、言葉だけ立派な看板を掲げるだけで、何もやっていない。
この問題は、正面から取り組み、きちんと結果を出してくれるのだろうか? 私は厳しい目で見守っている。