たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

近況報告=喪の作業中

2016年01月15日 10時05分46秒 | 祈り
昨日FBにこのような記事を投稿しました。
連日ブログに綴っていることのまとめみたいな内容です。
よろしければ読んでください。

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 日常的な出来事と想いは日々ブログに綴っているのでちょっと勝手が違いますが近況報告を書いてみたいと思います。長文になります。

 年末の28日に実家に帰省し、引きこもりの生活を続けています。13年間働いた会社(派遣先)から昨年の3月事実上使い捨てられるかたちで契約終了となり、その後ユニオンに加入して損害賠償を求めようとしたところ、会社の悪辣な弁護士が登場してきて気がついたら一年余りの闘いとなってしまいました。

13年間の間には会社で体の具合が悪くなっても人がいなかったため仕事をせざるを得ない場面が幾多ありました。インフルエンザにかかってもタミフルをのみ切ったあとは、おでこに冷えピタをはって会社に行き、ふらふらでトイレで吐きながらも仕事をしました。ひどい労務管理と数字減らしのもとで人がおらず、派遣にもかかわらずそこまでせざるを得ませんでした。そんな心身をすり減らすような思いで働き続けた日々を思い出すと今も吐き気をもよおしてくるような感があります。

 昨年何度も無理をして面接に行ったりしましたが全てうまくいきませんでした。年末の24日に面接に行った社会福祉法人の事務パートの仕事は来てほしいと言われましたが迷った末辞退しました。自分が次の場所で働けるだけのエネルギーを取り戻していくにはまだしばらく時間が必要だとわかりました。一年余り続いた弁護士との闘いも非日常的な緊張の連続で本当に心身を消耗し擦り切れてしまいました。

 この機会に近年相次いで他界した両親と23年前に他界した妹の、大量の遺品の整理を行っています。生きていた人の命が沁み込んだモノとお別れしていくことはかなりのエネルギーが要りますが、大切な喪の作業のプロセス。こうして失ったものを受け入れていくことで、また新しい道もみえてくるのだと思います。
 
 13年間長時間過重労働を続けながら、派遣先にも派遣会社にも一言も話すことなく精神保健福祉士の国家試験に合格しました。資格を活かしていける道に出会えるのかわかりませんが、12月から〇〇区の精神科の単科病院でソーシャルワーカーとしてボランティアを始めました。交通費だけいただいて実習に行っているようなものです。病院という組織で色々と問題は山積みのようですが、5年前に赴任された院長が管理職ユニオンと関わりがあるそうで労働紛争にも理解があり、会社の弁護士と闘ったことも安心して話せる環境です。当事者の会、家族の会など精神科の病院としては珍しい取り組みも行われており人が大切にされる場所です。心身のエネルギーが回復してきたら、まずはそこに戻っていきたいと思っています。

お別れは大切なプロセス

2016年01月14日 19時38分13秒 | 祈り
 着物類がぎっしりつまっていたのを引き取ってもらって空になった箪笥二棹、母が使っていた鏡台、母の日記や新聞の切り抜きを貼ったノート類がたっぷり詰まっていた背の高いラック(私が中学生の頃使っていたものでした)、そして23年間眠ったままになっていた妹のミシン・アイロン台とようやくお別れしました。業者に引き取りを依頼したら、これまたプロの仕事で、一時間ほどで見積りの上、運び出しの作業は完了しました。トラックに積み込まれていくのを見届けながら、やっと少し肩の荷がおりたような、責任を果たすことができたような、なんともいいようのない気持ちになり、涙が出ました。ずっと片づけなければと気になりながらできなかったMちゃんのミシンとのお別れ。洋服づくりが好きだったMちゃんのもとにようやく戻してあげることができました。お墓の前で「おそくなってしまってごめんね」と報告しました。

 妹の自死と大震災をはさんで、相次いで訪れた両親との突然のお別れ。わたしの人生の中で本当に大きなことでした。こうして両親と妹の命が沁み込んでいたモノたちとお別れしていくプロセスは、お別れを本当に受け入れていく大切な喪の作業だと感じています。希望をもつことが難しい日本の現状の中で、こうして肩の荷を下ろしていく先に、新しい道が開けてくると信じたいと思います。せっかく訪問して下さるのに、旅日記と写真のアップの続きがなかなかできずです。気長にお待ちいただければと思います。

「2013年3月17日(日)

 マニュアル通りは無論大切だがあまりにも心がこもっていないと気持ち悪くって仕方ない。マクドナルド式が増えすぎてあたたかさがなさ過ぎる。『自己コントロールの檻』を読み返したいと思う。

1989年の日記。私は自分がどこへ向かえばいいのかわからず道に迷っていたようだ。今と同じか・・・。宝塚ステージアルバムの1992年のものもデジタル化して現物は捨てる。あきらめていくしかないのだ。

金曜日の夜。すごく疲れていたからだろうか。布団に入ると、ふいに父の声が聴こえてくる。
母の顔が浮かんでくる。昔の場面を断片的にさまざまに思い出す。こんなふわふわした状態はまだ続いていくだろう。父も母もこの世のいないのだという実感がもてない。

会社は馬鹿げている。でも他に行ったらもっとひどいかもしれないし、おかしいのはどこも同じだろう。被災して住む所も仕事も失った人達がたくさんいることを思えば今は耐えるしかない。非常勤で、月一回のペースでなにかできないだろうか。福島で自殺する人が後を絶たない様子をブログで知る。なにかしなければならない、できることがあるのではないか。ついそんな思いが湧き立つ。何もできないのだが、あんまりきつい話には耐えられないのだが・・・。熱いものが自分の中に流れ始める。現実の私は、専門家たちの中で、何を発言すればいいのか、今もわからないでいる。
哲学を勉強したい・・・。」

疲れ果てた金曜の夜、父の声が聴こえたこと、手帳を読み返すまで忘れていました。
父とのお別れは、自分を守ってくれていた大きな柱を失ってしまったような、すごく心もとない感じになりました。大きかったですね。

珠玉のことばたち

2016年01月13日 20時48分15秒 | 日記
若松英輔‏@yomutokaku 1月3日
ほめられたければ、うまい文章を書くように努めればいい。だが自分が何者であるかを見極めたければ、そんな事は二義的な問題に過ぎない。人が文章を書くのは、評価を得るためではないだろう。おのれの魂を、真に揺り動かす言葉は、いつも、その人自身によって書かれることを本能的に知っているからだ。


若松英輔 ‏@yomutokaku · 1月6日
誰にでも魂を癒す糧はある。食物、言葉、絵画、音楽でもよい。そうした胸に抱き、いつくしんでいるものを事情を知らない評論家が見て、まるでなってない、未熟なものに過ぎないと断じても、それがかけがえのないものであることには何の変化もないだろう。切実なものを、真にかけがえのないものを愛せ。


若松英輔 ‏@yomutokaku · 1月6日
美術館で絵を見ていると、画家の名前を全く知らなくても心が震えるほど感動することがある。そうしたときにしばしば、その絵について誰かに解説している人に出くわす。その人の話を聞いていると、ふと、違う絵を見ているのかと想うのは私だけではないだろう。愛する者と評価する者の眼は同じではない。


若松英輔@yomutokaku 1月8日
読む事と、あらすじを知る事は全く違う。読むとは何ものかと出会うことだが、話の筋を知るのは、情報を溜めることに過ぎない。本の立場に自分をおけばすぐに分かる。履歴書に書けるような情報で自分を理解されたら、誰でも嫌なのではないだろうか。この世には、どうしても時間を必要とすることがある。


若松英輔‏@yomutokaku 1月9日

今も会社で働いているが、仕事とは何かを考えるなら、新しい本ではなく、古い、ことに哲学や思想書を読むとよいと思う。「仕事」は現代に始まった事象ではないからだ。生きることそのものとの関係を深く考えた良書はいくつもある。内村鑑三の『代表的日本人』もその好例の一つ。ガンディーの本もいい。


若松英輔 ‏@yomutokaku · 1月11日
悲しみは容易に消えない。だが、悲しみこそ、人生の帆である。帆をあげよ。風という宿命を受け止める帆をあげよ。悲しみの経験は人生の始まりを告げるだけでなく、私たちの人生を支える。自らの帆をあげてみればすぐに分かる。世の中は悲しみをたたえたまま、どうにか生きようとする人々で満ちている。










お別れ

2016年01月12日 22時34分38秒 | 祈り
母が突然旅立ってもうすぐ丸四年になろうとしています。
統合失調症を発症してからはほとんど手つかずのまま、20年以上眠り続けていた着物など箪笥二棹分+アルファとようやくお別れしました。京都に本社をおく業者さんに依頼したら、母が仕立てた着物の他に、帯や着付けに必要な小物類、反物などかなりの数でしたが全部ひきとってくれて、一時間ほどで片付きました。最初に電話した業者からは値段の着くモノだけを引き取るので、査定に行く前に何点あるか数えてほしいと言われましたが、素人の私がひとつひとつ箪笥から出して数えていたら大変な時間と労力がかかっていたと思います。お値段はわずかでしたが、全部引き取ってくれる業者さんに来てもらってよかったです。さすが着物のプロたち。

丁寧に仕立てられたものばかりでした。どうなっていくのかおたずねしたら、汚れがついているものはたぶん廃棄処分になっていくが、だいたいのものは染め直したりして使えるのはではないかとのことでした。できるだけ再利用していただけると母も喜ぶと思いますとお伝えしました。

物ごころついた時、家に帰ると母はいつも仕立て台の前に正座して着物を縫い続けていました。冬は火鉢をそばにおき、膝に小さいアイロンをあっためたままのせて寒さを防いでいたのでひざが軽く火傷していました。母が誰から和裁を習ったのか思い出すことができませんが、町の呉服屋さんから仕事を請け負うまでの腕前になっていました。一着仕立てていくら稼いでいたのかわかりませんが、今思えば立派な職業婦人の一人だったということだと思います。10代の頃は全くわかっていませんでしたがたいしたもんでしたね。そうやって一生懸命に私たちを育ててくれました。無駄にはできません。

気になっていた着物たちとはようやくお別れしましたが、まだまだ遺品はあります。父のモノも妹のモノもまだまだあります。特に細かいモノや捨てるに捨てられないモノは大変です。ひとつひとつ見直して分別していくのでモノとのお別れは本当に大変です。自分のモノもまだまだあります。こうしてお別れしていくことで、気持ちの整理もついていくような気がします。この機会にがんばってもう少し片づけて行きたいなあ。お別れの作業をしているとモノをほしいと全く思わなくなりますね。自分がいなくなれば全てゴミです。高級ブランド品とか、もともとほとんど興味ありませんが、いっそうどうでもよくなりました。何万円もするモノを人がもっていても羨ましいとか全く思いません。この世を旅立つ時はこの身ひとつでなにも持っていくことはできません。命ある間になにができるのか、何をすべきなのか、私はまた立ち直って行けると信じて、あこがれだっただらだら時間も持ちながらもう少しこんな生活は続いていきそうです。

父・母と震災をはさんでお別れが続いた後私の心は揺れ続けていました。

「2013年3月31日(日)

1993年から94年にかけて、私が最も愚かだった頃の日記を捨てた。デジタルデータとして残すまでもなく捨てた。ここまで持っているべきではなかった。読み返すと細かなことがおぼろげに思い出されてしまう。もう忘れよう。過ぎた時間は帰らないがどうせ死ぬんだ。もういい、忘れよう。軽くなっていこう。

ヅカのパンフレットもデジタル化して現物は捨てる。いつか捨てなければならないんだ。古い物は捨て去って新しく歩き出していこう。すぐに何かは見つからないが新しい風が通って見つけていけると思う。大丈夫。まだ人生の時間はある。」


「2013年5月4日(金)

忙しく働いてかなりの疲労がきている。

1985年6月19日、本を出版した前後の日記を捨てた。思い出すことができない場面もたくさんある。妹や母のことがでてくると辛い。もう忘れよう。よくそんなエネルギーがあったもんだと思うが、一途な日々だったがすべては過去だ。もう忘れよう。捨て去っていこう。新たに生き直していきたい。」


 実家から駅まで車だと5分、徒歩だと30分ぐらい。バスの本数も少ないので、二週間ほど電車に乗ることもなく、カフェに入ることもなく、散歩がてらのお墓参りとコンビニまで20分ぐらい歩いていってお菓子など買うぐらいでしょうか。13年間にわたり長時間過重労働を続けたあと、労働紛争の異常な緊張感の中でパソコン背負いながら徘徊する生活を一年半余り続けたので今はこれでいいです。あんな弁護士とよく闘えたもんだと手帳を読み返しながら思いました。明日こそは辞退する旨の電話をしなければなりません。気が重くってなかなかできないのですが、今日ようやく福祉人材センターに連絡したら本人から電話することになっているんだそうです。行政機関はやれやれです。明日こそはがんばります。

『春日局』

2016年01月11日 22時31分53秒 | ミュージカル・舞台・映画
 去年の1月6日に加藤清史郎君をみたくて観劇しました。清史郎君は『エリザベート』のルドルフと『レ・ミゼラブル』のガブローシュを足して二で割ったような役どころでした。思春期の入口に立ち、声変わりが始まった清史郎君の歌わない舞台ははじめてでした。歌わない一路さんの舞台姿を拝見したのもはじめて、カーテンコールもなく、見慣れたミュージカルとは趣がちがって不思議な感じがしました。ナレーションが奈良岡邦子さんでさすがの安定感を感じさせる舞台でした。

おふく(春日局):高島礼子
お江与:一路真輝
徳川家光:金子昇
紫:京野ことみ
徳川秀忠:山崎銀之丞
徳川家康:西郷輝彦
竹千代:加藤清史郎

原作・脚本 橋田壽賀子
演出 石井ふく子


あらすじなど明日書き足します。

母の遺品である着物の整理をしたので疲れました。
明日業者に引き取ってもらうことにしました。絹のものは値段がつくそうですが20年以上箪笥の中で眠ったままのものだったのでどうでしょう。小物類など和装に関するものは全て引き取ってくれるそうです。わたしたちが小学校にはいってから、内職で和裁をおぼえ呉服屋から仕立てを頼まれるまでになって私たちを育ててくれました。内職をする元気だったころの母の姿を今も思い出します。統合失調症を発症してからはできなくなってしまいました。反物をあずかったままになっているものもあるようですがもう時効ですね。
こうしてお別れをしていくことで私の気持ちにも区切りがついていくのかもしれません。



沈みかけている「日本丸」という大型船

2016年01月10日 12時41分48秒 | 本あれこれ
「日本は「課題先進国」と呼ばれる。世界の国々に先駆けて、様々な課題に直面している国、という意味だ。世界でもっとも早いスピードで進んでいる少子高齢化などは、その典型だろう。

 そして、この少子高齢化は、じつは、戦後の日本社会において「当たり前」とされていた「行政が何でも解決してくれる」というモデルを破壊しつつある。

 理由は簡単だ。このまま少子高齢化が進めば、人口減少による経済の縮小や税収の減少が起こるのは確実で、そうなれば、行政をきちんと機能させるための財源が確保できなくなるからだ。

(略)

 日本全体を見ても、「一億総中流」と言われたのは遠い過去の話となり、いまや子どもの六人に一人は貧困状態にある。さらに20代のひとり親の八割が貧困だ。いままさに、「日本」という国の底が抜け始めているのだ。





 いま日本では、徐々にこれまでの仕組みが懐死し始めてきている。ところが、多くの日本人はそれに気づかず、ひたすら文句だけを言い続ける。

 この状態を僕はしばしば、沈没した巨大客船「タイタニック」にたとえる。氷山にぶつかり、大勢の乗客を乗せたまま、ゆっくりと沈没していったタイタニック。いまの日本の状況は、それに似ている。

 巨大な「日本丸」は、ところどころに穴が開いている。いま、そこから水がどんどん入ってきている。このまま放置したら、確実に沈む。

 ところが、多くの乗客たちは「船長、何やってんだよ」「早くなんとかしてくれよ」と、寝そべりながらやいのやいの言っているだけ。

 でも、これっておかしくないだろうか。船長に「あれをやれ、これもやれ」と言うだけでなく、板を持ってきてさっさと穴をふさいだほうが、生き残れる確率は高くなる。

 子育て支援にしろ。貧困問題にしろ、高齢者介護の問題にしろ、行政の手が回らない部分については、そこに課題があることを大声で叫びつつ、とりあえず自分たちで手を動かして穴を埋める。でなければ、我々は沈むだろう。ゆっくりと。

 いまの日本にとって、「お役所任せ」から脱し、一人ひとりが、もっと社会に参加して、行動する世の中にしていくことは急務だ。それは「行政はもう要らない」と見切りをつけようということではない。「社会を支える」という仕事を政治や行政だけに任せるのをやめ、僕たち一人ひとりも社会を支える、いってみれば「公共」の一員となる、という覚悟が必要だ、と僕はいま声を大きくして言いたいのだ。」

(駒崎弘樹著『社会を変えたい人のためのソーシャルビジネス入門』より)



 お役所に行っても問題は解決しない、既存の行政の仕組みは刻々と変化している社会の現実に追いついておらずトラブルがあった時救いを求めてもほとんどどうにもならないことを、労働紛争となった経験を通して体感することとなりました。何度も書いていますが、私の中で行政への怒りと悔しさはまだまだすさまじいものがあります。でもいつまもでただ怒っていてもどうしようもないですね。ここはおかしいと声をあげ続けながらも、そこから一歩踏み出していきたいです。具体的に何ができるのか、稀有な経験をとおしてみえてきたものをどうプラスに転換していくことができるのか、ほんとに小さなことからなにか始めていきたいと思うのですが、どこにどう踏み出していけばいいのか・・・。

 私が一番つらかったのは、紛争中の苦しさを安心して話せる場が社会の中になかったことでした。自分のキャパシティから大きくはみだしてしまっている怒りと悔しさを吐露できない、もちろん面接に行っていうことなどできない、それが今も苦しくってたまらず、今もどこにも行くことができません、(ボランティアを始めた病院は特別で、院長が労働紛争にも理解があるので話すことができます。)かろうじて、お寺さんのグリーフ・ケアとマタハラにあった女性たちが立ち上げた団体のお茶会で吐露できる機会がありました。ただ日常的な会話の中では、闘いなんて言葉や民事裁判なんて言葉を出しても理解されず、日常生活からはかけ離れた特殊な内容で話すことはほとんでできませんでした。

 区役所の困窮者自立支援の中の就労支援というのを利用してみましたが、ハローワークのおじさまは民間企業の人事部のOBとかで上から目線だし、ワーカーさんはいい人で私の怒りと悔しさの受け皿になると言ってくれましたが所詮は行政で、進められたハローワークの求人に応募することによって振り回された感が残ることとなりました。労働紛争のことを言えない苦しさを抱えている限り、どこにいっても結局同じなのかもしれません。面接なんて、敵陣に乗り込んでいくような武装体制でした。これじゃあ安心して働ける場所に出会うことはできないでしょうね。全身武装してへりくだるような姿勢をみせないと働ける場所に出会うことができないのか、なんかおかしいなと感じます。

 派遣にかぎらず、私のように働いてきた会社と望まない争いとなり、特に納得できない結果となって心の傷を負ってしまった人たちはどうやって社会に戻っているのか知りたいです。そんな方々の声をまとめた本は出版されていないものでしょうか。そんな方々と出会って声を聴きたいです。弁護士は、何年もかかる裁判の間働く先を紹介し裁判中であることは言わないように当事者に促す、裁判のため有給休暇を使って休む時どう理由をつくるかで頭を悩ます、裁判が終わった後の人たちがその後どうしているかは知らないとのことでした。私が今まで出会った裁判経験者の方々には、「普通に」社会に戻っている方はいません。「普通に」社会に戻っている人はいるのか。どうやって戻っていったのか、知りたいです。どうやったら「普通」に社会に戻っていった人に出会えるでしょうか。知り合いの記者さんにおたずねしてみたら、そんな方々を知っているのかな。なんかそんなことばかりを考えているこの頃です。


社会を変えたい人のためのソーシャルビジネス入門 (PHP新書)
駒崎 弘樹
PHP研究所

心のなかで祈り続ける

2016年01月09日 11時57分05秒 | 祈り
 新しい居場所に行くかどうか返事をしなければならないのに、今週とうとう電話できませんでした。こんな奴は社会人として失格ですね。インフルエンザにかかりながらも出社して吐きながら仕事をせざるを得なかった日々を思い出すと吐きそうになってしまい、そんなに自分に無理をさせていたことを思うと体中の力が抜けていきます。

 他にも会社で具合悪く近所の医者で薬を出してもらいながらも、吐きながら仕事を続けた場面は幾度もありました。ひとつひとつ思い出してしまうと、それだけ吐きそうです。

 母の遺品も整理しています。病気になる前は詩吟をやったり、婦人会の文芸クラブ?で旅行に行ったりした記録のノートや資料、新聞の切り抜きもたくさんあります。目を通していると元気だったころの母がたちあがってくるかのようです。私や妹が高校に入学した時に出費や慶弔金を記録した家計簿ノートも出てきました。がさつでしたが私と同じで記録は几帳面で丁寧でした。私がそんな母に似たんですね。美術館や舞台の観劇チケット、家計簿ノートはお別れできませんでした。

 一昨日内科でだしてもらっている薬がなくなってきたので、こちらで同じ薬をだしてもらうためにお医者さんに行きました。よくしてもらいました。生活のリズムが整わず夜更かしを続けてきたし、なによりも長時間労働、過重労働で2時前後に就寝して朝はなんとか7時過ぎに起床。5時間あるかないかの睡眠時間を平日は何年にもわたって続けてきた疲れが一気にきています。とにかく夜更かしすると調子が悪いです。なので名残惜しいですが今日はここで終わって明日書き足そうと思います。

 
 11日は成人の日だからまた連休なんですね。ちひろ美術館のFBに「大人になるということ」のちひろさんの言葉が投稿されました。自分のブログに書いているので読み返しました。

http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/7b3923bae3d2b15a33a3bb88d7fdfb62/3

 日本では、どうでもいいタレントの不倫騒動とか一部マスコミが騒いでいるみたいですが、シリアでは子ども達が命を落としています。世界は日々動いており、そんなことを思うと今だ「あけましておめでとうございます」と言える気持ちにはなれない私がいます。

2010年10月26日付の母の主治医とあった先生へのお手紙。
年末に慌ただしく帰省して往診に立ち会い、話をしたいと思って書きました。
医者に家族の状況を知ってもらい、生活のことまで相談しても取り合ってもらえるはずなどなかったのですが、勘弁してくださいよでしたが、今読み返してみるとちょっとずれている感じがしますが、その時私は必死になっていました。
プライベートな事情が丸わかりなのでどうかなとも思いますが載せてみようと思います。

「O先生

 こんにちは。29日にお目にかかることになりました。よろしくお願いします。私の立場は、結婚しているわけでもないのに家を離れ、横から口だけは出すという、第三者からも弟からも勝手なように映る状況であることを十分承知しています。親類たちからも、(父の)葬儀・法要と折々に非難されました。弟にも一年前母が10年近く本人受診がないまま、主治医も決まっていないということがわかった時点で、私がうるさく心配し過ぎた為に、そんなに言うなら自分が帰ってきて面倒みればいい、と言われてしまいました。その時の温度差は埋まっていないような気がします。父がなくなった今、私の立場では、実家に対して全ての義務と権利を放棄して弟に委ね、一切手を引くという選択肢もあり得ます。それができないのは、私なりになんとかしていきたいと考えてしまうのは、妹の自死という事実があるからかもしれません。今でも信じられず、またおそろしくて体がふるえてきてしまいますが、16年前の9月、妹は突然自ら選択していなくなってしまいました。妹のことを思わない日はありません。その重い荷物を背中からおろすことは自分がいきているかぎりできません。

なぜ死ななければならなかったのか、正解はどこにもありませんが、父と母のきびしい人間関係からくるきしみが一番脆弱な妹にいってしまった、子供が親の犠牲になったと考えてしまうのは、あまりに辛すぎますが妹が自分の命と引き替えに、私と弟の分まで引き受けてくれたのかもしれません。私が20歳を過ぎた頃まで家族はあたたかいもの、両親はいつでも帰れば迎えてくれる安全基地でした。その歯車が狂い始めたのは、23歳ぐらいの時だったでしょうか。細かい時間の経過はおぼえていませんが、亡くなった妹がネズミ講にひっかかっているとわかった時からです。その頃弟は家を離れて働いていたので何も知りませんが、私は両親が怒鳴りあうように、会話にならない会話を続けていた情景を今でもおぼえています。おそらくその頃から母は自分では受け容れられないストレスと緊張にさらされていたのでしょう。

父はすごくいい人でしたが、昔の家父長制の中で次男として子供時代を送り、若い頃は一等航海士として働いていたそうです。なんとなくちょっとズレているような面があり、家族に対しては威圧的ですごく細かい所まで自分の思った通りになっていないと気がすまない、とても難しい人でした。母はずいぶん惚れ込んで一緒になったときかされています。子供が成長して落ち着いたらお父さんと二人で旅行に出かけたりしたい、そんな人並みなことを夢見ていました。お父さんのしていることに間違いはない、ずっと従って私たちを一生懸命に育ててくれました。本当に真面目な人です。

それだけに妹のことで警察を呼ばざるを得なかったその事態は母に津波のようなストレスとなっておそいかかってしまいました。その直後、「私は子育てを間違えた。お父さんの言うことをきいてきた私がバカだった。」それからほどなくして気がついた時、妄想の症状が現れていました。おそらく母は自分を守るために、受け容れがたい、日常的なレベルをはるかに超えたストレスにおそわれた時、病気になることでしか自分を守る、生きる術がなかったのではないか、今私なりに考えています。

妹も自分を守るために家から逃げ出す力があればよかったのかもしれません。私が逃げ出して両親のもとに一人残って、だんだん自分がわからなくなってしまって、亡くなる頃家の中で何が起こっていたのかを説明できる人はもういませんが、ただ亡くなる少し前に私に助けを求めてきた、今思えばお姉ちゃん助けてよ、という意志表示があった、そこを救ってやろうとしなかった、どころかつき離すようなことを言ってしまった。

何を言ったかをお話しすることはあまりに私にとって辛く、私のカウンセラーの先生の他には話していません。ただすごく残酷でした。妹はどんな思いできいて、そして何を思いながら遠くへいってしまったのでしょう。
誰にもわかりません。私はただただ今あらためて妹の写真に手を合わせ、わびるばかりです。母の健康度がわかりませんが、謙譲な部分で妹のことをずっと思い続けているようです。私には、「可哀想なことをした」という話をします。

私の母に対する思いは、愛情と恨み、憎しみが交互にまざりあい、なかなか複雑です。近くで毎日顔をみていればどうしても負の感情の方がまさってしまいます。だから私は自分の心の健康を守るために、自分が一緒に暮らすという選択はしません。すごく勝手なように第三者からはみえるかもしれませんが、弟が一緒に暮らしてくれているから成り立つことですが・・・。

父の危篤から法要まで、母の日常生活のリズムをできるだけ壊さないようにやってきた、ストレスと疲れで叫び出したいような衝動にたびたびおそわれながらなんとか今まできた。心の負荷がそろそろ限界にきているのはないかと思いながら、私を応援してくれる人もいることでなんとか毎日を過ごしています。幸いなことに仕事もあります。

母にとってどうしてくことがこれからいいのか、私と弟にとってもいいのか、私なりに一生懸命考えようとして先生の意見をうかがいたいと思うしだいです。
相続のことに関して医療機関の責任の範囲を超えていることは十分承知しています。(略)母にも(法的に相続の)権利があることを弟にわかってもらわなければなりません。これからいずれにしろ、母も直筆で書類に名前と住所を記入するという作業が必要になってきますので、母の認知能力をどう見るべきなのか、今後の方向性と合わせておきかせいただければ幸いです。

乱筆、乱文で読みづらくて申し訳ありません。

三人、それぞれにとって一番いい方向性が見い出していけるよう御意見をいただければ幸いです。

よろしくお願い致します。

2010年12月26日 たんぽぽ」

 先生は高齢の統合失調症の患者などに興味はなく、若年層のうつ病、気分障害の患者をみて臨床経験を積み上げていきたかったみたいです。往診の看板も出しておらず、それでも困っている人に往診しているのは、医者としての良心だったようです。往診がなく、本人が受診を拒んで医者に連れて行くことができない時、よそのご家族はどうしているのか今も気になります。そんなご家族に対してお手伝いさせていただける人に、私はこれからなっていけるでしょうか。

写真は秋のプリンス・エドワード島。エルマイラ駅舎前です。
寒風ふきすさぶ10月半ばなのに、お花が咲いていました。
 

こんな本を注文してみました

2016年01月08日 08時45分07秒 | 本あれこれ
月曜日にインターネットラジオで紹介されていたこんな本をアマゾンで注文してみました。

『社会を変えたい人のためのソーシャルビジネス入門 (PHP新書)』

¥ 886

 稀有な経験から何ができるのか、何もできないのか、考え中です。

 ボランティアしながらさぐっていけたらと思うのは甘いでしょうか。

『エリザベート』_2012年宝塚ガラコンサート

2016年01月07日 21時42分36秒 | ミュージカル・舞台・映画
 一昨日久しぶりに2012年宝塚ガラコンサートのDVDを観ました。DISC1、伝説の1995年雪組初年メンバーバージョン。

 一路さんトート、花ちゃんシシィ、高嶺さんフランツ、轟さんルキーニ。

 この時の成功がなかったら、その後宝塚、東宝で繰り返し上演されることはなかったと思います。初演から16年の歳月を経てのガラコンサート。何回観ても感無量です。『エリザベート』は楽曲が素晴らしく、その素晴らしさを体現できる役者、オーケストラ、スタッフ、観客・・・全てがそろって創り上げられる舞台なのだとあらためて思います。

 初演を観ていることは宝物のひとつ。

卒業論文_序章

2016年01月07日 14時37分18秒 | 卒業論文
 私に膨大な長さの卒論を書かせたのは「怒り」だと指導してくださった先生がおっしゃいました。当時自分では自覚していませんでしたが、労働紛争も経た今振り返ってみると、2001年6月に働き始めた大会社のひずみを、過重労働になる前からすでに敏感に私は感じ取っていたということになります。日々の就労の現場で感じ取っていたことがそのまま卒論につながっていきました。2003年の春頃派遣元移籍という違法行為をし(これってまったく珍しいことではないことを労働紛争になってから知り驚きました)、過重労働に陥っていかざるを得なくなり、結果的に4年ぐらいかかってかきあげました。いつ終わるかわかりません。長文になりますが載せていこうと思います。よろしければお読みください。

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混み合う電車に押し込まれ
ガラスに額をつけたまま
大きなため息をついたら
なお気がめいる

どんなに悲しい夜ばかり
過ぎても会社に着いたなら
笑顔を振りまいて
Jokeの一つもとばす

何を求めて明日を探せばいいのか
大きな海を漂う木の葉のようだわ

仕事を始めていたずらに
時間が流れていくけれど
けじめと名のついた
卒業証書がほしい

誰もが自分の生き方を
見つけて歩いてゆくけれど
私は変わらずに
私でいるしかできない

『電車』作詞・作曲/岡村孝子 編曲/荻田光雄(1987年)

「電車」というタイトルがつけられたこの歌は、しんどい「OL」の心情をよく現していると思う。今や職業との関係を抜きにして女性の人生を語ることはできないが、働く女性の代名詞ともなったいわゆる平凡な「OL」、つまりキャリアではない「女に適した仕事」に就いている女性にとって仕事は働きがいのないもののように思われがちである。働いている女性自身もそう思っている。「OLなんか続けていても、何の将来性もないし。ただ古いというだけで認めてもらいない仕事でしょ。事務って・・・」。 1) 35歳独身、大手生命保険会社に14年間勤務している女性のことばである。

 短大卒業後地方銀行に10年間勤務した作家の唯川恵は,OL7年目の心情をこう書いている。「私にもいちおう7年のキャリアがあります。だけどキャリアなんて言葉を使うのも気恥ずかしいぐらいの仕事です。いつまでたっても補助的なこと。やりがいのある、なんて口にもできない」。 2) つまらない、やりがいが感じられないとなれば、結婚した女性は、「仮にOLを続けたとしても、昇進でも昇給でも確実に男性社員と差をつけられる。家事との二重負担に苦しみながら続けるには割に合わない」(35歳専業主婦) 3)ので、家事や育児に専念した方がまだしも魅力的に思われてくるのである。

 女性雑誌には、やりがいを求めて華麗なる転身をした女性が紹介される。添付の資料にあるように、例えば、「入社3年目は女の転機、やりたい仕事つかむ 人生リセット作戦」 4)「アンアン読者107人から聞いた仕事白書-これを読めば、やりたい仕事、自分に合った仕事が見えてくる」5) 「コレが転職してキャリアアップする人 私たち転職したので毎日仕事が楽しいです!!」6) など、「OL」の仕事はつまらないもので転職してやりがいのある仕事に就かなければいけないかのように思わせる誘惑の数々が巷には溢れているのである。

 「OL」というと、結婚までの腰掛としてお気楽に働く職場の花、コピーとりとお茶汲みだけでなんら生産性のある仕事をせず、男をみつけるためだけに会社にいてチャラチャラおしゃれしているような人、というイメージがあり、「OL」という呼び名は、何だか屈辱的なものに感じられた7) と、「OL」からエッセイストへと転身した酒井順子は言っている。『好きを仕事にする本』の中で、「OL」からリフレクソロジストへと転身した25歳の女性は、以前は警備会社で営業事務をしていました。当時は仕事内容があまり自分に合わず、毎日「本当の自分ではないな」と感じながら働いていました8) 、と言っている。

 「OL」から一般にイメージするのは事務職従事者であるが、「OL」が毎日オフィスの中で、実際にやっていることは、実に様々で細々とした「雑務」が多い。男性は仕事、女性は家事を担うという性別役割分業が徹底していた日本型企業社会において「OL」に求められてきたのは、基幹的な作業を担う男性や上司の補助をする「女房的役割」であった。そのため、「OL」の職業活動は、社会の中で積極的に意味のあることを自分のため、世の中のためにやっているのだという働く人間としての実感と納得が得られにくいものなのである。そのため、今ここにいる私は本当の私ではない、という思いが強くなる。高校卒業後地方銀行に就職した私は、4年目の秋の日記にこう書いている。「私はなんだかいてもいなくてもいいような
存在、やりがいのあることをやってみたい」。

 しかし、私自身も含めていわゆる「OL」の仕事はそれほどつまらないだけのものなのか、無意味なことなのか。会社にいる時間は本当の自分ではないのか。今日「OL」を取り巻く環境は、厳しさを増すばかりである。平成不況の長期化は、職場におけるゆとりを奪い、目先の利益を求めて厳しいリストラや雇用調整に走る傾向が続いている。要員は削られ、定型作業の一部は「パートさん」や「派遣さん」に委ねられていく。雇用形態の多様化は、「OL」たちの集団的な「レジスタンス」のできる環境を奪いつつあり、仕事はストレスに満ちた「結構しんどい」ものへと変わってきている。正社員・契約社員・派遣社員と雇用形態の異なる「OL」たちが働く今日の職場では、同じ労働に従事していても、仕事と家庭生活が不可分の「OL」たちの互いの課題や目標、悩み事はまちまちで、性差別を受けながら組織だった抗議行動をとることをさらに難しくしているのである。
 
 私たちは自分自身でありたい、自己実現したい、日常生活の中で自分の位置を確認したいと願うけれど、それは難しいことである。今日、人間の幸せのためのほどよい生産計画、ほどよい消費計画などまったくとびこえて、巨大な産業、めまぐるしい情報が動き続ける。超現代的な大工業や金融機関・官庁機構さらに情報網の完全なプランと組織化のなかで、人間は、労働すること、働くことの意味についてあらためて徹底した内省を強いられているのである。9)

 人間の生きた活動、人間らしいよろこびを感じることのできる活動は、個人の場でしかないことになるのか。それとも、家族やレジャー仲間での<骨休め>の場にしかないのか。10)働きがい、さらには生きがいを考える時、仕事=労苦、遊び=安楽といったステレオタイプ的な捉え方から出発するのが私たちの日常生活では一般的であり、そこには、仕事には何かを生み出す、何かを作り出すという加算のポジティヴな意味があるのに対して、遊びの方には普通、何かを使う、あるいは消費するという減産のネガティブな意味しか認められないからだろう。しかし、このような考え方を純粋に適用できるような場面というのは、私たちの生活にはほとんど例外的にしか存在しない。働くか、さもなくば遊ぶか、といったオール・オア・ナスィングの選択は、むしろ抽象的である。仕事が労苦として受けとめられているとき、人びとは仕事と仕事ではないものとを「労働」と「余暇」に分けて考えていた。

 「労働」と「余暇」は、目的の有無、価値の生産と消費、効率と非効率、規律と自由、まじめと遊び、つらさと楽しさというふうに、さまざまに対比されてきた。そしてリクリエーションということばに象徴されるように、後者はいずれも前者により多くのエネルギーを注ぎ込むことができるように、休息し、リフレッシュし、エネルギーを蓄えるための時間とみなされてきた。つまりそういう思考の枠組みは、あくまで前者の労働を中心に設定されたものだ。

 理屈の上では労働を神聖視し、称賛しながら、実際にはできるだけそこから逃れようとしているのが、今日的な状況である。皮肉なことに、会社での労働よりも無償のボランティアの方が、かつての仕事、他者のために体を動かすこととしての「働く」ことの原型イメージにより近くなっている。 11)

 私たちは、欲望を満たし、楽しいことを享受して存続するためには、働かなければならないが、ただそれだけではないはずだ。お金のために辛抱して働くという労働観とは異なる労働観があるにちがいない。労働が人間の活動であり実践でありかぎり、“働く”ということも、我慢してやっているのではない、自らやっていることとしての能動的な意味を持ったものでなければならない。労働を通じて私たちは己を社会的世界に関係づけているのである。

 そこで、「OL」の視点に立って、私自身の体験も織り交ぜつつ、あまり平等を語ることなく恵まれない労働に携わるノンエリート女性の不安やしんどさを文字にしながら、日常生活の次元で私たちがもってきた労働についての知識や考え方に疑問を投げかけ、労働の真の意味を問い直してみたい。私たちがふつう労働という場合は、もちろん精神的・肉体的な社会経済的労働を指しているが、そればかりでなく、人間の活動・行動とを考え合わせて、生活の中に生きた労働観を見出したいと思う。

 市場経済的に合理的である私たちの労働が社会的に、したがって私たち個人にとってどのような意味をもつのか。金銭をどう考えるか。何のために働くのか。労働は労苦でしかないのか。働きがいをどこに見出せるか。仕事の種類、クリエイティブな仕事をしているか、していないかは働きがいに結びつくのか。「労働」対「余暇」という既成概念を超えて、日常生活の主体者として、自分がしたいことと生活のためにしなければならないこととのバランスをどうとっていくか。

 そして、経済的自立も含めた、女性にとっての自立を問いかけてみたいと思う。平成不況の長期化により、終身雇用制度・年功序列賃金は見直されつつある。高度経済成長期に定着した「男性は仕事、女性は家庭」という性別役割分業に基礎をおく男女共生の社会システムは揺り動かされている。これまでの家族を中心にした日本型企業社会を超えて、夫や子どもなど他人を通じて生きる前に、まず「個」としてどう生きるかを考えることは、女性にとって極めて今日的な課題である。

 今や女性のライフサイクルは多様化している。先に紹介した酒井順子は、最近女性に様々な選択の道が与えられていることをケーキブッフェに例え、「選択の幅が大きいことは、もちろん良いことです。しかし本当に「自分はこうしたい」という意志をもっていない人にとっては、かえってつらいこととも言えます」 12)と言っている。必要なのは、まず日常生活者として自分の考え方をしっかりもつことなのである。今や人生80年のライフサイクルの中では、何が起きるかわからない。会社の倒産、リストラ、失業は、珍しいことではなくなった。病気になったり、身近な人の死に向きあわなければならないこともある。そうした困難・危機を乗り越え、さらなる成長、再生へのステップとしていく。人生の転機に、自ら考え、意思決定してリスクに立ち向かう能力を身につけることは、今日の急激に変化する世界において、自分自身の人生を創造していくために必要な能力である。

 持つこととあることの存在様式の違いに注目したE・フロムは、「あるということによって私が言及しているのは、人が何も持つことなく、何かを持とうと渇望することもなく、喜びにあふれ、自分の能力を生産的に使用し、世界と一になる存在様式である」 13)と言っている。この“ある”ということを日常生活の次元で考察することを通して、さらに、私たちが生きることを支えているものはなにか、真の幸福とはなにかを考えてみたいと思う。

 今日ほど、生きることが生活実感として問われている時代は、これまでなかったのではないだろうか。この卒業論文作成を通して、これまで私自身が歩んできた道を振り返り、これからの生き方の方向性を見出すことができればと思う。



引用文献

1) 松原惇子 『クロワッサン症候群(文庫版)』147頁、文春文庫、1991年(原著は1988年刊)。
2) 唯川恵『OL10年やりました』141-142頁、集英社文庫、1996年(原著は1990年刊)。
3) 竹信三恵子『日本株式会社の女たち』167頁、朝日新聞社、1994年。
4) 『ケイコとマナブ2002年11月号』リクルート。
5)『an・an2001年10月3日号』マガジンハウス。
6)『CANCAN2002年7月号』小学館。
7) 酒井順子「解説」唯川恵『OL10年やりました』203頁。
8)『好きを仕事にする本』リクルート、2002年11月。
9) 清水正徳『働くことの意味』172頁、岩波書店、1982年。
10) 清水正徳、前掲書、172頁。
11) 鷲田清一『だれのための仕事』2-6頁、岩波書店、1996年。
12) 酒井順子、前掲書、201頁。
13) E・フロム著、佐野哲郎訳『生きるということ』38-39頁、紀伊国屋書店、1977年。