2011年3月29日(火) 晴れて暖かい
ガソリン、灯油、数週間前のあのパニック状態。朝から何時間も並ぶ。ガソリンスタンド周辺は車の列が幾重にもなり交通渋滞が起きた。バスは正規路線が走れず迂回した。
整理券をもらって給油しても2,000円だけなどの制限があった。
ところが今日はどうだろう、臨時休業しているガソリンスタンドは見当たらない。いつでも給油できますの張り紙。
11日以来 必要最小限の運転しかしなかったのでガス欠の心配もなかった。
久しぶりにガソリンスタンドへ行って給油した。待つこともなく満タン。その上リッター2円の割引と下部洗車無料である。
被災地や救急車などを優先した今回の処置はよかったと思う。
私たちは経験したことのない未曾有の大震災でパニックになってしまった。
2~3週間待てば世の中が落ち着き様子が分かって来る。太平洋戦争時と違って備蓄石油は十分あると日本石油連盟が発表しても、目の前に無いと人間は風評に怯えパニックになるのだろう。
このような風評被害についてNHKで学者が次のようなことを語っていた。
「ガソリンや灯油は当分入荷しない。停電が続く。福島県の農作物は放射能物質が付いていて危ない・・・・など」
すると人間の自己防衛メカニズムが働き、買い占めたり、買わなくなったりする。
国などがリアルタイムで信頼できる情報を発表すること「安全は安全、危険は危険」。また、情報と行動指示が矛盾しないことが大事である。国民もリスクを許容することである。
~パニックは 自己防衛の メカニズム~
「京都冬の一人旅21」
第4日目 3月2日(水) 晴れているがまだ寒い
ねねの道(高台寺道として親しまれた道)を下って目の前の圓徳院に着いた。慶長10年(1605)北政所ねねが豊臣秀吉との思いで深い伏見城の化粧殿とその前庭を山内に移築し移り住み、晩年の19年間を過した地。ねね亡き後、寛永9年(1632)、甥木下利房が高台寺の三江和尚を開基として、木下家の菩提寺の改めたことで
高台寺の塔頭となった。
伏見城の化粧御殿前庭を移築した北庭は桃山時代の代表的な庭園で「天下一の名手」といわれた庭師・賢庭によるもの。後に小堀遠州が手をい加えたされるが、当時の原型をそのまま留めている。巨石を配した枯滝石組や築山を中心とした枯山庭園から桃山時代の豪胆な気風を窺い知ることができる。
観光客はだれもいない。庭を独り占めで十数分眺めていた。ゆっくりと時間が流れていた。よかった。秋だったら紅葉が彩りを添える。それも趣があってよいが、ねねも眺めたであろうこの枯山庭園を一人で当時に思いを馳せ眺めることができて幸せであった。
また、方丈には普通桐紋などを散らした唐紙には絵を描かないのが通例だが、襖絵制作をを懇願していた長谷川等伯が住職の留守中に一気に描きあげたという逸話が残る水墨画「山水図襖」(現在は復元を展示)をはじめ、襖絵、書簡などが所蔵されており見所は尽きなかった。写真撮影ができないのが残念です。
今回は秀吉、ねね、秀吉の生母大政所の肖像画の寺宝などが特別公開されていて観ることができた。
ガソリン、灯油、数週間前のあのパニック状態。朝から何時間も並ぶ。ガソリンスタンド周辺は車の列が幾重にもなり交通渋滞が起きた。バスは正規路線が走れず迂回した。
整理券をもらって給油しても2,000円だけなどの制限があった。
ところが今日はどうだろう、臨時休業しているガソリンスタンドは見当たらない。いつでも給油できますの張り紙。
11日以来 必要最小限の運転しかしなかったのでガス欠の心配もなかった。
久しぶりにガソリンスタンドへ行って給油した。待つこともなく満タン。その上リッター2円の割引と下部洗車無料である。
被災地や救急車などを優先した今回の処置はよかったと思う。
私たちは経験したことのない未曾有の大震災でパニックになってしまった。
2~3週間待てば世の中が落ち着き様子が分かって来る。太平洋戦争時と違って備蓄石油は十分あると日本石油連盟が発表しても、目の前に無いと人間は風評に怯えパニックになるのだろう。
このような風評被害についてNHKで学者が次のようなことを語っていた。
「ガソリンや灯油は当分入荷しない。停電が続く。福島県の農作物は放射能物質が付いていて危ない・・・・など」
すると人間の自己防衛メカニズムが働き、買い占めたり、買わなくなったりする。
国などがリアルタイムで信頼できる情報を発表すること「安全は安全、危険は危険」。また、情報と行動指示が矛盾しないことが大事である。国民もリスクを許容することである。
~パニックは 自己防衛の メカニズム~
「京都冬の一人旅21」
第4日目 3月2日(水) 晴れているがまだ寒い
ねねの道(高台寺道として親しまれた道)を下って目の前の圓徳院に着いた。慶長10年(1605)北政所ねねが豊臣秀吉との思いで深い伏見城の化粧殿とその前庭を山内に移築し移り住み、晩年の19年間を過した地。ねね亡き後、寛永9年(1632)、甥木下利房が高台寺の三江和尚を開基として、木下家の菩提寺の改めたことで
高台寺の塔頭となった。
伏見城の化粧御殿前庭を移築した北庭は桃山時代の代表的な庭園で「天下一の名手」といわれた庭師・賢庭によるもの。後に小堀遠州が手をい加えたされるが、当時の原型をそのまま留めている。巨石を配した枯滝石組や築山を中心とした枯山庭園から桃山時代の豪胆な気風を窺い知ることができる。
観光客はだれもいない。庭を独り占めで十数分眺めていた。ゆっくりと時間が流れていた。よかった。秋だったら紅葉が彩りを添える。それも趣があってよいが、ねねも眺めたであろうこの枯山庭園を一人で当時に思いを馳せ眺めることができて幸せであった。
また、方丈には普通桐紋などを散らした唐紙には絵を描かないのが通例だが、襖絵制作をを懇願していた長谷川等伯が住職の留守中に一気に描きあげたという逸話が残る水墨画「山水図襖」(現在は復元を展示)をはじめ、襖絵、書簡などが所蔵されており見所は尽きなかった。写真撮影ができないのが残念です。
今回は秀吉、ねね、秀吉の生母大政所の肖像画の寺宝などが特別公開されていて観ることができた。