都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

展望台からの夜景

1992-10-05 | ロシア  

1992.10.5(Mon) Vladivostok

19:00~20:30、FreeTime。
 昼にも行った展望台へ、O氏と二人で歩いて行き、金角湾の夜景を見る。アレキサンドル氏は、夜間に出歩くのは危険だからやめた方が良いと言っていたが、滞在中、夜景を見に展望台へもういちど行けるとは限らないので、意を決してこっそり行ってみた。運良くトラブルにも遭わなかったので、結果的にはこの行動は成功だった。

展望台からの夜景 湾奥方向(画像Click:800*300 pixel)  Google Map

 展望台からの景色がとても良いので、その夜景も実にきれいだった。家々の明かりはみなオレンジ色で暖かい感じ。日本とは違って、街の明かりのほとんどが白熱灯やナトリウム灯なので、色彩のバリエーションはあまりない。また広告看板もほとんどないのでカラフルな夜景ではなかった。しかし金角湾の水面に、港の施設の灯りや街の灯りが映り、ちらちらと揺れ動いて見えるのは幻想的だった。

展望台からの夜景 手前はケーブルカーの山上駅(画像Click:755*380 pixel)

 東京や香港などのカラフルで都会的な夜景を期待して行くと、単調でつまらない、都会的でない夜景にしか見えない。しかしそういう意味では、期待を見事に裏切って別の刺激を与えてくれる景色だ。オレンジ色の光が無数に眼下に広がり、対岸の丘の上まで灯りが散らばっている。

展望台からの夜景 湾口方向

 ところで夜間の外出は注意を要する。まずほとんど街灯がついていない(町はずれだったからかもしれないけど)。また足下が悪い。マンホールの蓋が開いてたり(これは昼間でも結構とんでもないことだけど。)、路肩が崩れていたり、犬のフンがあったり・・・。
 またアレキサンドル氏が危惧していたように、ウサンクサイ連中もいる。僕らは遭遇しなかったが、最近はマフィアのような連中が夜うろついているという。言葉が判らないから、暗いところで男が二人でこそこそ話しているのを見ると、みんなマフィアに見えてしまって、緊張してしまうのだった。

 さて、帰ってみると風呂が入れないとのこと。うーむ、昼間お湯が出るといって喜んだのはぬか喜びだったか・・・。

 20:30、明日の調査打ち合わせ。午前中は全員で市役所のヒアリング、またはアルセーニエフ歴史博物館見学の予定。また午後は、グループ内の3人はスウェトランスカヤ通りの建物、街路調査をすることになる。一方私とO氏は南北に走る3つの通りを主に調査することに。

 22時少し前に解散、部屋へ戻ると、湯も水も出ない!。暖房も入らない。電気しか来ていない!。冷蔵庫もほとんど使い物にならない(物入れにはなるけど・・・)。これではどうしようもない。何にもすることがなくなったので日記を書いて寝てしまうことにする。なんだかんだ言いながら今日も結構疲れた。同室の他の二人は早速眠りについてしまう。

 ハバロフスクでの体験があるので夜寒いのだけは避けたい。どうやら建付けはしっかりしていて、寒くはないようだ。ウラジオ自体がハバロフスクより暖かいのも好都合だ。しかしベッドはハバロフスクのホテルチャイカの方が良かった。寮のベッドは横になるとハンモックのように腰の辺りが沈んでしまい、どうも始末が悪い。だが安い宿泊先でもあるし、他にあてがあるわけでもないので、うまく付き合って行くしかないようだ。

 23:30頃、日記を書き終えて就寝。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#パノラマ  #眺望  #夕景・夜景 
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シコタ半島・書店

1992-10-05 | ロシア  

1992.10.5(Mon) Vladivostok

 ヒアリングの後、シコタ半島に出かける。夕日がきれいだった。夕日の射す湾の入口には多数の船舶が停泊していた。おそらく検疫待ちの船だろう。今日は一日中快晴、遠くの山まで見渡せた。

シコタ半島から金角湾口  Google Map

 眼下の山裾には小さな白い教会が逆光の中に見えていた。その教会の形が何かに似ているような気がしていたのだが、後になって、長崎チャンポンのチェーン店「リンガーハット」だと気づいた。もちろんリンガーハットとはなんの関係もないのだけれど、なんだか残念な感じ。

 帰りがけに書店に寄る。ロシアの本屋さんには全く本がない、というと叱られるかもしれないが、手に取って見てみることができる本が極めて少ない。単行本や文庫本はほとんどなく、平積みなどという過剰な状況は当然だが一切ない、というかできない。小学生の副読本のような、月刊誌(といっても十数ページのぺらぺらのものだが…)や、幾つかのお薦め本、そして童話の類しかないのだ。そのお薦め本も、店員さんに頼んで棚やショーケースから出して貰わなければ見ることさえできない。ここでは本も宝石などと同じ高級品なのだろうか。

 しかしめげずにこれらを買おうとレジへ行き、支払いをして、お釣りを貰おうとするとこれもない。細かいつり銭の代わりにガムなんかをくれてしまう。しょうがないからそれを貰って食べるが、これもまたおいしくないので、結局地元の子供にあげてしまったりする。ガム以外では、しおりやカードをくれちゃったりもする。というかお釣りがないからこれも買ってよ、と勧められてしまい、いやおうなしに買わざるを得ないのだ。

 僕らにとっては別に大した値段のものではないが、何だかいよいよ複雑な気分になってきてしまう。超インフレの状態で、お釣りさえもままならないという状況を目の当たりにすると、都市計画とか都市景観とかより、まずこの国の経済状況、政治・経済のシステムの方が根本的に問題なんだろうな、ということにいやでも気づかされてしまって、どうも暗い気分になってしまう。

 振り返って僕らの国は、物の値段が高いなどと言っているが、人々の大半はまがりなりにも暮らしていけてる。お釣りがない、物がないなんて状態は、僕が生まれてからは一度も体験したことがない。そんな意味では、ぼくらはとても幸せな生活をしているのだなと思う。本屋さんに行けば有り余るほどの本が積まれ、街のあちこちにコンビニや自販機があるという国は、考えてみれば世界中で日本だけなのかもしれないなぁと改めて思うのだった。

 17:30に帰寮。部屋で少し休憩した後、18:00に夕食。鮭+ライス、サラダの軽食。ロシアでは昼食がディナーなので、夕食はサパーで軽い。日本の夕食に慣れていると、どうも物足りない気がするがしかたない。しかし明日はスパゲティとのことで、一同喜び期待する。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#パノラマ  #海・川・池  #山 
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沿海州都市計画研究所

1992-10-05 | ロシア  

 15時、ウラジオ中心部にある沿海州都市計画研究所に到着。所長のユーリ氏(Yuriy.V.Smolyaninov)に会い、ヒアリング。

沿海州都市計画研究所が入居する建物  Google Map

 まず前回、研究室の先輩が訪問した際に頂戴したウラジオの昔の写真について質問する。絵葉書は1915年頃のものが多く、ウラジオが自由都市で多くの人種の人々が住んでいたときに撮られたものだという。従って絵葉書には4種類の言語で写真の説明が付けられている。そしてこれらはこの事務所が1970年頃から収集したものだという。また港のパノラマ写真については、5年ほど前に撮られたものだという。

 この他、建築関連の法律について、歴史的建造物の保存についても話を聞いたが、いまひとつ理解して貰えない状況で参った。しかも先方の事務所長氏は、自らの最近の設計事例の載ったカタログを見せて、資金があればこのようなプロジェクトができるので合弁企業を作らないか、と持ちかけて来る始末で、あまり歴史的建物の保存などには興味がないようだった。

 日本の場合、戦災もあり、また戦後、急速に建築や街並みが変化したので、築百年以上の建物は珍しい。それに木造建築は比較的速く朽ちるので、80年も経つと文化財的に認識されがちだ。だが一般に、ヨーロッパ圏の都市の旧市街には築200年程度の建物がごろごろあり、「古い」という物差しが全然違うようだ。築100年ぐらいの建物は大して古くないじゃんみたいな感じ。こちらは、ウラジオに80年前とほとんど同じ街並みが残っていることを貴重だと思うが、もっと古いのが多いので、これはまだ文化財じゃない、という感じ。

 また、私達がロシアを訪問したのは、ちょうどソビエトが崩壊して新生ロシアが誕生した直後で、それまでの考え方が急激に変化していた時期だった。あまりにもいろいろなことが激しく変化しつつあったので、歴史的建造物の保存などについて配慮できるような状況ではなかったのかもしれない。

 外国人に対するヒアリングは非常にまどろっこしい。しかも今回は、ロシア語と日本語を、専門用語も含めてダイレクトに通訳できる人が用意できず、仕方なく一度英語を介したりしたため、エラク厄介なことになった。

 日本語で質問をすると添乗員のS氏がロシア語に訳すが、建築や都市計画に関する適切な言い回しができないため、先方がすぐには理解してくれない。仕方がないので英語で補足するが、先方もこちらも英語に堪能ではないので、これもなかなか伝わらない。でもって、探り探りようやく伝わったところで、今度は質問に対する見解が返ってくるが、これもよく分からなかったりする。伝わったのかと思ったら、やっぱり伝わってなかった・・・、みたいな徒労感満載のインタビューなのだ。また、答えが単にダー(Yes)とかニェット(No)だけだったりして、時間が掛かったのにそれだけかよ・・・、みたいなこともある。
 時間が異常に掛かる上に、わかりにくくてしかもつまらないやりとりを聴いていたら、眠くなってしまって全く参った。

 更に、通訳をかってでてくれた現地の男性が、日本語を話す際、必ず「あのですねぇ」とか「そのですねぇ」を最初に言うのが可笑しくなってしまい、話の内容がまるで頭に入ってこなかった。連続して「あのですねぇそのですねぇ」と一生懸命話してるのは、失礼ながら爆笑もので、以後しばらく私たちの間ではその口真似が流行ってしまった。

 ヒアリングの後、都市計画部の事務スペースを見せて貰う。圧倒的に女の人が多い。賃金が安いため、このような職場には女性が勤めるのだそうだ。それから男性は頭脳労働が多く、女性は単純作業もしくは肉体労働が多いという。そこら辺も妙な差別感覚だ。だから市電の運転手に女性が多かったりする。

 事務室には“つた”が室内中に這っていて、なかなか環境的には良いようだ。写真を撮っていたらBirthday Cardをなぜかくれた。事務所の片隅にあった都市計画の模型を見せて貰う。山の上に高い建物を造るという都市計画は西欧型のものだろうか。高台に超高層ビルが建ち、金角湾には吊り橋が掛かっているという、結構壮大なプランだ。確かに地形から見ても、湾の両側をつなぎたいという願いはとても良く理解できるが、はっきり言って、今、ウラジオにそんな資金的能力があるかどうかはなはだ疑問だ。凄い大風呂敷だなぁと思ったが、そこで、はたと、先程の所長の合弁持ちかけの態度も理解できたのでありました。海外からの投資大歓迎ということなのだな。

 17:00、事務所を出て建物の前で記念撮影。

市内を走るトラム

 前の通りには市電が走っている。ウラジオでは2輌連結でいくつかの種類の車体が走り回っている。何故かは良くわからないが、市電というのは何だか夢のある乗り物のような気がいつもする。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#オフィス  #鉄道 
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中央広場

1992-10-05 | ロシア  

 正午、中央広場に行く。

中央広場からスヴェトランスカヤ大通り沿いの建物群

 広い。しかも雰囲気が明るく非常に良い。天気が良く、暖かい。ハバロフスクから来ると、日差しがまぶしい。歩いていればコートはいらないかもしれない。広場の前はスウェトランスカヤ大通りというウラジオ一の目抜き通りになっている。通りに面した建物が、一列に並んでいるのもなかなかの景色である。広場の真ん中には革命戦士の像がある。早速銅像の前で記念写真を撮る。

中央広場 革命戦士の像  Google Map
沿海州共産党本部ビル  Google Map

 広場の西側には沿海州の共産党本部ビルがある。ウラジオストク中心部の中でもひときわ高く目立つ白い建物だが、体制が替わり、今は空室も多いらしい。屋上にはソビエトの旗ではなく、ロシアの三色国旗がはためいていた。広場からの視界はかなり開けていて、丘の上の鉄塔が青空の中にすっと建っているのが印象的だった。

跨線橋・駅の向こう側は丘になっており、頂上にはロシアの三色旗のモニュメントがある。

 共産党建物の左手、広場の端から鉄道駅の方へは、跨線橋・歩道橋が長くつながっている。線路の上を長々とつながる姿はちょっと奇妙だ。

中央広場地下の屋内運動場

 広場地下の屋内運動場を訪ねる。冬の寒さが厳しい土地ではこのような施設が必要なのだろう。運動スペースとして50m程のトラックが造られているのだが、天井はかなり低い。僕らでもちょっと飛び上がれば天井に手が届いてしまう。走る以外には、射撃などにしか使えそうにない不思議なスペースだ。でもって現在このスペースがチェス倶楽部として使われている、というのがまたまた不思議なところだ。トラックの白線の脇に小さな机と椅子が4組ほどあるだけで、広々としたスペースには他に何にもないのだから本当に奇妙だ。またこのスペースを案内してくれた意図も、実はさっぱりわからなかった。でもそんなことはあまり考えないことにする。黴っぽいがなんだか面白い所だった。連れてこられなければ海外でこんなところに入り込まないだろう。

 12:40、バスに乗って寮に一度戻る。ちょっと休憩。
 13:30、朝と同じ食堂で昼食。F氏は熱っぽいので午後はお休み。

 14:30、寮を出る。みんなで外出する時は、いつも貸切バスが寮の玄関まで迎えに来てくれる。マイクロバスで幼稚園の遠足みたいに、揃って街へ出かけるという寸法である。危ないから勝手に外出しちゃいけません、ということらしい。ガイドがないと入れないところに行けるのは良いが、自由に時間を割り振って見ることができないのが残念だ。

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#街並み 海外  #広場  #高層ビル  #官公庁  #オフィス  #モダニズム  #モニュメント 
#地下  #体育館 
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軍事記念館など

1992-10-05 | ロシア  

 展望台を後にしてすぐ下のカレッジ(極東国立工科大学)の建物を見に行く。

極東国立工科大学・山岳研究所  Google Map
カレッジ前の坂道

 坂道を下りきった所にある3階建ての建物の前には、学生たちが日本同様たむろしていた。ここも交通量の多い道路に面している。ウラジオの街を走る車はおんぼろが多いので、ブレーキの効きが悪い。キーキーとブレーキ音を響かせて坂を降りて来る車がいると、そのまま突っ込んで来るのではないかとちょっと不安になる。

軍事記念館(旧ドイツ教会)  Google Map
2011年現在は、セントポール ルーテル教会

 坂下の交差点そばには軍事記念館がある。帝政ロシア時代はドイツ教会だったそうで、建物の外観は完全に教会でレンガ造りのゴシック建築。ただし頂部の十字架は共産主義時代に撤去されて、今はない。建物のデザインは宗教的なものなのに、その周囲に昔の小さな戦車や、大砲などが展示してあり、妙なギャップを感じてしまう。時間がなかったので、内部の見学はしなかったが、聖堂の中に、鉄砲やら剣やらが展示されているのだろうか。もしそうならそれはかなり凄い違和感だろうな。

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#階段・坂 海外  #古い建物 海外  #教会  #大学  #ミュージアム 
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展望台からのパノラマ

1992-10-05 | ロシア  

 11時、バスで鷲の巣展望台へ行く。

展望台からのパノラマ(Click:1918*252)  Google Map   Panoramio

 ウラジオ港、金角湾の全体が良く見え、270°のパノラマが広がる。港には艦船、客船も多く、見に来る観光客も結構いる。これだけ手頃な展望台は滅多にない。感動的な景色を残すべく、連続写真を撮ったが、270°を写すにはかなりの枚数を必要とした。

 以下は、部分の拡大。

北東方向:街の背後にそびえる山と通信施設、手前は集合住宅
東方向:高台に造られた新しい国営団地の方向
東方向:金角湾(ウラジオ港)奥方向
南方向:ウラジオ港の港湾施設
南西~西方向:金角湾口とウラジオストク市街中心部
展望台からウラジオ市街と港に停泊する艦船など

 上から見ていると、すぐ下の道では信号のない交差点付近が渋滞していて、ロシア製のトラックが黒い煙を吐きながら坂を喘ぐように上っている。その向こうに見える港では、ロシア海軍の駆逐艦が灰色で精悍な船体を港の入口の方へ向け、静かに停泊している。そして遥か向こうには半島の先の方が見え、そのまた向こうにいくつかの島、そして水平線がぼんやりと見えている。秋の穏やかな日差しの中で、ウラジオストクは一年で一番良い季節を迎えているようだった。

 展望台のすぐ下にはケーブルカー「フニクラ」の山上駅がある。訪れた時は故障中で動いていなかったが、後日近くを通った時に見ると線路の修理が行われていて、近日中に再び動かすとのことだった。景色の良い展望台があって、そこへケーブルカーで行くことができるようになるのは、なかなか楽しみだ。

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#パノラマ  #眺望  #街並み 海外  #海・川・池  #山  #塔 
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ウラジオストク到着

1992-10-05 | ロシア  

 9時頃、ウラジオストク駅到着。

ウラジオストク駅  Google Map

 駅は結構人が多い。相変わらず人込みに入ると緊張してしまう。他の人から離れないように、重い荷物を引きずって必死に着いて行く気分。でも塔がついた緑色の駅舎が可愛らしかったので、慌ててそれも撮っておく。

 駅を出ると出迎えの平和委員会の人が多いのでびっくりする。なぜそんなに大人数でお出迎えなのだ? 駅前広場も車が多く人も多い。去年より活気があるとのこと。

 道路は混雑し渋滞している。東欧、ロシア製の自動車は排ガス浄化されていないのでかなり臭い。このままでは、今後環境問題が多発してしまいそうだ。これらの車は馬力でも遙かに劣る。しかし車が多いので街に活気がある感じで、ちょっとこちらも元気になる。ロシア極東最大の都市に来たのに、活気がないとよけいに寂しくなってしまうから、これはこれで良いのかもしれない。

 迎えのバスで技術大学の寮(ドミトリー)に行く。おとといのホテルチャイカより設備は良い。窓もちゃんと閉まる。TVも電話も各部屋にある。湯水もしっかり出る。そんなの普通は当たり前なんだけど、それだけでうれしい。次第にロシアンペースが分かってきた。基本的生活ができれば最高なのだ。ドミトリーは3人部屋。おお、冷蔵庫もある!。しかし後で、冷蔵庫もTVも壊れていて使えない代物だとわかった。またかよ。

宿泊先ドミトリーの付属レストラン「熊」と送迎バス

 10:30にドミトリー隣の2階にある職員用のレストランで遅い朝食。手羽肉、酸っぱい油炒めライス。それにサラミ、チーズ、ジュース、紅茶、まあまあ慣れてきた。建物の外には「熊」と漢字で書かれたレストランの看板があったが、それは3階にあるもうちょっと良いレストランのことらしい。

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#鉄道  #自動車  #大学  #ネオ・ロシア 
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シベリア鉄道の朝

1992-10-05 | ロシア  

 4時頃、F氏じんましんのようなものを発症し、それで起こされる。車内がやや乾いて暑く寝苦しい。二人で通路に出て、灯りの下で様子を見る。確かに彼の腕や背中に発疹がいくつかできている。何だかむず痒いらしい。ただこの時は大したことではないようだったので、寝れば直るだろう程度の判断でまた床についてしまう。

 7時過ぎに起床。F氏吐き気を催す。どうやら何か食べ物にあたった模様。S氏も若干気持ち悪いと言う。しかし不思議なことに他の人は誰も体調を崩していない。食あたりであるとすれば何だろう?。特に彼らが人と異なるものを食べたわけではない。昨晩、先生たちと食べた薫製を、F氏が割合沢山食べていたということで、薫製じゃないか?という話が出る。薫製であたるという話はあまり聞いたことがないが・・・。

 かつおの刺身とかで生の場合、アニサキスという寄生虫がいて、体内に入ると胃を食い破られてしまうという話を聞いていたので、その話を冗談混じりにしたら、やたらに怯えてしまったので参った。生魚食べてないから関係ないんだけど・・・。

 しかもアニサキスという名が、馴染みがなくて覚えにくかったため、その後いつのまにかアンルイスになってしまい、F氏の胃の中にアンルイスがいて暴れ回っているという、とんでも話になってしまった。しかし暴れそうだな、アンルイス・・・。

シベリア鉄道・原野の風景

 そんなこんなで笑っている間も列車は淡々と進んでいき、外には林が続いているのでした。

 08:20、最後の途中駅に2分停車。ウラジオストクに近くなるとトイレが使えなくなるので、8時少し前に用を済ませる。ということは、つまりその、そのまま落下・飛散タイプなのだ。だから街中では使えない。日本も昔はそうだったけど。

シベリア鉄道・海上の建物

 列車は海沿いをひた走る。海岸から細い橋でつながったリゾートホテルのようなものが見える。田舎なんだけどどうも生活はゆったりして充実してるのかもしれない、とも思うし、でもあれは一部の特権階級の人だけのものなのかもなぁとも思う。

ウラジオストク市街遠望

 弧を描いた海岸線の向こう、海越しにウラジオストクの街が朝もやの中、蜃気楼のように、夢のように現れる。最初、街は小高い丘の周りに立ち並ぶ高層アパート群と丘の上の鉄塔によって、一つの城塞のように見えていた。列車が近づいていくと山肌に多くのアパート群が並ぶ、新興のニュータウンのような風景にそれはなって行った。ハバロフスクの、割合に平面的で大陸的な街の姿と全く異なる、港町の姿はやはり非常に魅力的だ。

シベリア鉄道から、ウラジオストクの街並み

 町に近付いて来ると中層のビルが見えて来る。建設中のビルを見ると、柱や梁が日本に比べてどうも細いように見える。地震があまりないから大丈夫と考えられているのだろうか。日本のごつい構造を見慣れた目からすると、どうも頼りなさげでなんかの拍子にクシャッと潰れてしまいそうな気がする。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#街並み 海外  #鉄道  #海・川・池 
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