都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

Bar Ocean

1992-10-08 | ロシア  

1992.10.8(Thu) Vladivostok

 20:00 午前中に訪ねた設計事務所のそばにある、水族館付属の Bar Ocean(Океан)で夕食。ここではきれいな女性が2人で給仕をしていた。滞在中に若い女性と話をする機会があまりなかったので、帰り掛けにY君は添乗員のS氏を介して写真を撮らせて貰っていた。

Bar Ocean 店内

 店内はいくつかのブースに分かれていて、各ブースは大きめのテーブルをソファが囲んでいるスタイルだった。各ブースの上部にはTVモニターが取り付けられ、大音量とともにロシアンロックが映し出されていた。ここでもその音はあまり良くない。ハバロフスクでの食事の際、アンプからの音が歪んで割れていたのが思い出される。

 メロディーやリズムなど曲の方も今ひとつだ。なんと言えばよいかわからないが、発展途上国的という感じで、基本的に8 Beat のノリで、ブンチャブンチャ、ドンパンドンパンの単純なリズムである。複雑でスピーディーな最近のDisco系のノリ、即ち16~32 Beat のダンサブルな曲に慣れているとどうも古い気がしてしまう。単純なフレーズをサビに使って連呼するのもややダサイ。

 しかし考えてみると、この街では音楽というものが野外ではほとんど聞こえない。もちろん中央広場でアマチュアバンドがライブをしていたりはするが、繁華な中心部でも店から音楽が漏れてくるということはほとんどない。どうも、BGMを流すという発想が普通の店にはないようだ。また一般の店にそういう設備を備えるだけの余裕がないことも挙げられよう。日本の状況になれていると違和感があるが、こういう方が意外に世界では普通なのかもしれない。つまり日本の環境の方が異常なのかもしれないのだ。

 Bar Ocean の客は基本的に男だけだ。「男の酒場」なのだ。でもってこのような店はやはり高い。従って客層は自ずと金回りの良いオヤジが中心になる。ロシアに来る前、日ソ旅行社の人に、ウィンドブレーカーやジャージを着てる連中はマフィア系かもしれないから注意しなさいと言われていた。いわゆるマフィアは金回りがよく、従来の革ジャンではなく輸入品の化繊ウィンドブレーカーや派手なジャージを着てるのだという。日本ではジャージを着てたらジョギングのオヤジだが、こちらではマフィア系の人物なのだというのだ。なんだか妙な話だ。マフィアなのにあまりカッコ良くない。その「ジャージの兄貴」が Bar Ocean には2~3人いた。そこで我々は彼らには目を付けられないようにおとなしくしていたのだった。

 バスの運転手は僕らが店や事務所に行くといつも別の場所で待機している。昼食の時も同様だ。しかし、今日は夜が遅くなってしまい、予定の時間を過ぎ、外で食事ということになったので運転手氏をも招いて共に食事をとろうとしたのだが、現地ガイドのアレクサンドル氏はなぜか強く反対するのだった。そこら辺なにかわけありらしいのだが、私たちは結局、彼と共に食事をとることにした。運転手氏はロシア語しか話さない。従って、黙って、気分的にはやや窮屈そうに食べていた。途中で一回だけ、MTVを見ながらリズムをとって、「いいよなぁこれ」みたいなことを言っていたのが印象的だった。

 21:30頃 帰寮。今日もいろいろなメニューが盛りだくさんだった。帰寮が遅くなってしまったので、昨日、ドミトリーの女学生らと交流することはできなくなり、明日の夜に先送りとなる。

 23:00頃 疲れて就寝。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧
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駅周辺散策

1992-10-08 | ロシア  

1992.10.8(Thu) Vladivostok

 駅周辺をI氏、O氏と散歩する。夕暮れが急速に迫って来ていた。

鉄道駅(左)と郵便局(右)

 鉄道駅のすぐ隣には船客ターミナルがあり「海の駅」と呼ばれている。その「海の駅」には吹き抜けのホールがあり、真ん中に灯りのともった噴水が据えられていた。しかしあまり人けはなく閑散としていて、しかもホールのそばの通路は電気が点いておらず、ほとんど真っ暗だった。ウラジオの街に慣れてきたとはいえ、そういうところを通るとやはり俄に緊張してしまう。

海の駅のホール  Google Map

 小さな子供が物陰から二人出てきて「写真を撮ってくれぃ」と身ぶりで話したので一枚写真を撮ってあげる。撮ったところで、日本のフィルムに対応したDPE店がないウラジオでは現像・プリントができないので、写真をあげられないのだが・・・。

中央広場から、スヴェトランスカヤ通りを走るトラム

 19:45に中央広場に集合。さすがに夜は暗い。迎えのバスを待つ間、通りを走る車や市電を眺める。市電の車内灯までが白熱灯で暖かい雰囲気なのは少し意外だ。

スヴェトランスカヤ通りを走るトラム

 音楽活動をしているF氏は、友人への土産物として450RB(180円)のアコーディオンを3つも買っていた。広場で早速代わる代わるアコーディオンを弾いてみる。しかしバンドネオンタイプの物で、全てプッシュスイッチになっているので、どのボタンを押せばどの音階が出るのかよくわからず、なかなか目指す曲は弾けない。ましてやハーモニーをつけるのは、すぐにはできないことだった。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#街並み 海外  #夕景・夜景  #鉄道 
#吹き抜け・アトリウム 
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土産物購入

1992-10-08 | ロシア  

1992.10.8(Thu) Vladivostok

 18:20、中央広場にて解散。
 I氏、O氏ともう一軒の小さなグムへ行き、昨日、K氏らが買ったマトリョーシカ(743RB(約300円)×2)を買う。ちょっとベタだけど、ロシア土産といったらやはりマトリョーシカだ。この頃には既に、ロシアの歴代大統領・書記長の姿をしたものもあったが、とりあえずオーソドックスなタイプを購入。

マトリョーシカ

 購入時にO氏が5,000RB紙幣(2,000円相当)を出したところ、新規に発行されたばかりの紙幣だったらしく、新札を初めて見た店員がみんな集まり驚いていた。「これ新しいお札ねぇ、初めて見たわ。」と言っていたかどうかはわからないが、表情はそうだった。でもって、そんなお札をポンと出す謎の東洋人にも好奇の視線が集まるのだった。

グムショップ店内と猫

 暖房が効いた店内の棚の上では猫が誠に気持ちよさそうに丸まって寝ていた。ロシアでも犬や猫は可愛がられているようだ。その後、昼にも訪問したNostalgiaへ再び行き、小さな絵を1,000RB(400円)で購入する。

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墓参団と宴会

1992-10-08 | ロシア  

1992.10.8(Thu) Vladivostok

 バスでウラジオストクホテルへ向かう。今日の昼食は先の墓参団の人達と一緒にとることになっていた。彼らが日本に帰るのでお別れパーティーをするという。豪華な食事で楽しい宴になるからついでに一緒に食べに来いというのだ。これだからロシアはよくわからない。どうしてそんな合わせ技になるのか、不思議な国である。

 私たちは14:30前にホテルに着いたが、件の墓参団はまだベリョースカで買い漁っているらしく、なかなか到着しない。(日露友好)平和委員会から招かれたという体になっているためか、人数が多いせいか、墓参団の方が優先されるようで、彼らが到着するまではレストランに入ることさえもできなかった。仕方なく私たちは14:30に一時解散し、それぞれ散歩をして到着を待ったが、彼らはいつまでたってもやってこない。昼食が15時になっても食べられないのはつらい。腹が減って、添乗員ともども腹が立ったので、レストランと交渉して先に食べ始めてしまう。

 15:00頃になってようやく墓参団が到着。正式に宴会が始まり、私たちはここぞとばかりがつがつ食べる。F氏はVodkaを飲んで早速赤鬼化する。

ウラジオストクホテルにて  Google Map

 途中で黒い制服姿で勲章を沢山つけたおばちゃんがぞろぞろと多数入ってきた。僕らがナンダナンダと思っている間に、おばちゃんたちは整列してテーブルを取り囲み、合唱を始めてしまった。歌はロシア民謡のオンパレード。カチューシャにカリンカ、赤いサラファンなどなど。ついでに日本の桜を歌ったりしてサービスバッチリなのだが、恰幅のいいおばちゃんたちが席の後ろから大きな声を張り上げてくれると、僕らは何だか食べづらい感じになってしまい、複雑な笑いを浮かべながら小さくなってしまうのだった。聞くところによると、おばちゃんたちは第二次大戦以来唄い続けてきたとかで、数々の場面で唄ったことを勲章が物語っているのだった。

合唱団に囲まれて食べる

 日本の歌をいくつか歌ってくれたので、何故そのような曲を知っているのかと尋ねてみたところ、ダークダックスがやって来て歌ってるからということだった。それを聴いた私が「そうそう、彼らはロシアに何十回も行ってあちこちで歌ってたんだっけなぁ。」と言ったところ、「何故そんなこと知ってるーっ!」とまたしても言われてしまった。知ってたんだからしかたないのだ・・・。

 盛り上がって来ると、コサックダンス調のロシアンダンスも始まり、こちらとしても日露友好ということで、調子を合わせて盛り上がらざるを得ない状況になってしまった。で、ダンサーの女性とS氏が一緒に踊ってしまったり、K氏がみんなと一緒に跳ねてしまったりでもう大変さ!、の世界になって行ったのだった。

 18:00 狂乱?の宴会は日露友好万歳!!ということでようやく幕となった。いやはや・・・。

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ベリョースカとノスタルジア

1992-10-08 | ロシア  

1992.10.8(Thu) Vladivostok

 13:00頃 設計事務所を出て北の方に行く。
 昼食かと思ったらベリョースカ(Берёзка・白樺)という外貨ショップに連れて行かれてしまった。お土産もいいがおなか空いてるんだけど・・・。

バラライカを弾く熊の木彫

 13:30 ベリョースカに到着。
 切手集・熊の置物・ブローチ2ケを買う。その他にはジュース、菓子等。後からドヤドヤと鳥取県のシベリア墓参団の団体が入ってきて、土産物をバサバサと買っていた。驚異的なスピードでキャビアを買い占める姿を見て、どっと疲れてしまう。こういう団体さんには全く参る。グムで30RB(12円)のカップを買うべきかどうか迷った自分を顧みると、ウームと唸ってしまう。

Nostalgia

 14:00 Nostalgiaという土産物屋へ行く。
 アレウツスカヤ通りの一つ裏通りを西に入ったところにあるこの店では、割合に高価な品物を扱っていた。為替レートの関係で、日本人にとってはロシアの物価は非常に安く、高級品でも安く手に入るが、それでも貴金属や絵などはやはり結構高く、学生の私たちには簡単には手が出ない物だった。また、この店のそばには中国風の玄関を持つ別の店があり、当時のウラジオでは珍しい外観を見せていた。

カフェ(Кафе)

 近くの店の看板にはコーヒーカップと時計の針のような物が描かれていた。Кафе(Cafe)とあるので、喫茶店らしい。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#商業系 
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ГОРОД(ゴロド)事務所でヒアリング

1992-10-08 | ロシア  

1992.10.8(Thu) Vladivostok

 8:30 起床。喉が相変わらず痛い。少し咳がでる。一方、体調を崩していたF氏は復活して妙に元気になっている。
 9:15 朝食はクレープのようなもの。おなかが一杯になる。

ドミトリーわきの工事現場
サイドカーに乗ったおじさんが現場作業員に感謝のガッツポーズ

 10:00 ドミトリ-前に集合。とある設計事務所へ向かおうとしていつものバスを待つが、なかなか来ない。バスの手配に手違いがあったらしく、待っていても来ないことが判り、徒歩で丘の裏の方の交差点まで行き、バスと合流することになる。そのへん、なぜそういうことになるのわからない。旅行先の街なかで山道のような道を歩くことになる。着いた先でも、先方のアポイントメントの関係かなにかでまた待たされてしまう。なんだか朝からついてない一日になる予感。

裏山を抜けてバスとの合流地点へ
オケアンスキー大通り交差点(ГОРОДパンフレットから転載)

 10:35 バスと合流しようとした場所は、オケアンスキー大通り交差点の近く居住地区で、マーケットがあった。荷台から物売りをする人などもおり、結構人も多い。退屈しのぎに交差点のいい加減なスケッチを描く。交差点に向かって坂道を下りてきたバイクが、ロータリーを周回して一時停止したらエンジンが止まってしまい、乗っていたおじさんは一生懸命押し掛けをしていた。

バスの日除けカーテンに付けられたバッジ
右側通行なので、乗降ドアも右側

 10:40頃 ようやくバスが到着する。ところで僕らが乗っていたバスの運転主氏は、バスのフロントガラスの上方に赤いカーテンのような物を掛け、それに沢山のバッジをつけていた。カーテンは日除け代わりだろうが、日本では仕事に使うバスにこんな飾りつけをしたりはしない。でもこういう意外に自由なところは悪くない。

 11:00 ГОРОД(ゴロド)という都市計画設計事務所に到着。海沿いのアスレチックジムのような大きな建物の3階に、その事務所は間借りをしていた。S氏他の先輩や先生は昨年も訪れたという事務所で、挨拶のあと、いろいろな模型・図面を拝見する。

 何よりも驚いたのは、ウラジオストクの地図が無造作に壁に貼ってあったことだった。軍港都市で外国人の立入が許されていなかったウラジオでは、一般の人はまともな地図を手に入れることができない。外国人が観光で行けるようになったとはいえ、細かな地図を目にするのは初めてだった。一同、皆、この地図が欲しかったのだが、さすがにこの地図は貰うことができなかった。また、たとえ貰ったとしても空港で引っかかって没収される可能性がある。

 所員に模型の説明をしてもらい、それをI氏が撮影するビデオに向かってS氏と、A氏が解説するという形で次々に記録していく。F氏、K氏は壁に貼ってあった地図に描いてある凡例・その他の文字を、「写楽」というハンディコピー機で一生懸命転写。英語の先生で、通訳をかって出てくれたタマーラおばあちゃんは、このハンディコピー機をエラク気に入っていた。私は様々な模型・図面の写真を次々に撮影した。スパイが事務所内の一切合財の資料をフィルムに収めて嵐のごとく立ち去って行くようで、なんだか申し訳ないような気分になるのと同時に、収穫を得た後のような妙な満足感に一同浸るのだった。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#自動車 #オフィス 
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