都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

もういちどアルバート通り、そしてハバロフスクへ

1992-10-15 | ロシア  

1992.10.15(Thu) Moscow → Khabarovsk

土産物屋

 15:00 またしてもバス運転手のコネのある土産物屋に連れて行かれる。

 僕等としては市内の賑やかな場所、例えば前にも行ったアルバート通りのような、商店街、市場とかフリーマーケットで買い物をしたいのだが、どうも運転手はいわゆる土産物屋に僕等を連れていこうとする。I氏を中心として、アルバート通りにもう一度行きたいと交渉するのだが、あちらより良いものがあると言って譲らない。その土産物屋に行かないことには運転手が納得しないので、仕方なくとりあえずその店に行く。

 しかしやはり昨日訪れたようさえない土産物屋で、予想したとおり値段がやたらに高い。ドルで買えるのだが、つまらないボールペンが1ドルもするのには腹が立つというより、もはや呆れる。なにしろ市中に行けば1/10の値で同じものが買えるのだ。不当に高いというか、外国人なのを良いことに詐欺まがいの値で売りつけているといっても良い。当然何も購買意欲をそそるものは見あたらない。運転手氏が自ら、ほらこんなものはどうだ、これはいいものだとか言って妙に熱心になかば押売のように勧める。

 だが、そうされればされるほど、げんなりしてくる。わかったわかった。でもそれは高すぎるから要らない。それは僕の好みじゃないとか言って断る。最初の内は相手の好意をむげに断るのがためらわれたので、少しは興味を持つようなそぶりをしていたが、却って向こうをその気にさせてしまうので馬鹿馬鹿しくなって、はっきりNO Thank Youと言うことにした。そっちが売り込むつもりで断られて当たり前、乗ってきたら儲けものと思っているなら、こっちもドライに断ってしまえということになる。

 とりあえず店に立ち寄って、運転手氏の顔も少しはたてたので早々に切り上げて再度アルバート通りにバスで向かうことにする。運転手氏は「もういいのか、もっとゆっくり見たらどうだ。」と言ったが、アルバート通りへ断固として連れて行けと要求して、漸く向かわせる。

 


アルバート通り

 15:10 アルバート通り着。1時間半程度ここでモスクワ最後の買い物をする。一回目は何となく散歩しただけだったが、今日はモスクワ最終日だったので、みやげ物買い漁りモードになり、街を見るのもそこそこにいろんなものを買いに走ることになった。

アルバート通り   Google Map

 あちこち見て回るうち、F氏と出会ったのでしばらく行動を共にすることにする。

 F氏はウラジオ以来、ずっとバラライカを買いたがっていた。品切れだったり土産物の飾り物だったりで、結局ここまでは買わずに来たのだが、ここへ来て遂に手頃な物を見つけて交渉に入る。相手も慣れており、最初は結構高額な提示をしてくる。英語があまりできない売人で、その様子を見て近くの他の売人が仲立ちをしてくれる。

 ただ、彼等は互いにロシア語でしゃべっているので、「良くわかんないみたいだからふっかけて高く売っちゃおうぜ!」と言ってるのか、「そいつは高いんじゃないの。それじゃ買ってくんないよ。」とたしなめているのかよく判らない。「彼はいくらが希望だと言っている。」というだけの通訳ではないのは、彼等の話の長さから見ても明らかで、仲介者の意見もいろいろと入っているようだった。これだから間接的通訳は厄介なのだが、この通じてるんだかどうだかわかんない状態も、街角でのショッピングでは面白いものだ。

 結局F氏はバラライカ2台を買うことにし、その合計は当初の1台の提示額よりも安くなっていた。ついでに言うなら、このようにしてF氏は旅行中にバラライカ、アコーディオン(バンドネオン)、おもちゃの太鼓と、様々な楽器を買ったのだった。

 さて私は、色とりどりのスカーフが気に入ったのでそれを買い求めることにした。こちらは通りに並ぶ露店ではなく、その背後に控える国営商店で売っている。通りに並ぶ服飾店の中でもやや立派で綺麗な建物に入り、店内を見て回る。ガラスケースの中に入っているスカーフをあれこれ出して貰い、気に入ったものを数枚買うことにする。

 途中で出会ったターニャさんが数詞の言い方を教えてくれる。例によって品名と値段をレジで言って先に会計を済ませる。おそるおそる数詞を言うと、わきからターニャさんが補足して言ってくれる。レジのおばさんはまるで愛想がなく、ただつまらなそうに頷き、レジスターを操作して釣りとレシートをよこす。レシートを持って再度カウンターへ赴くと、売り子のおばさんはニコニコしながら既に包んであったスカーフの袋を渡してくれる。ここらへん、営業成績に関わる人とそうでない人の差なのか、単に個人的性格の差なのかよく判らない。ただ微笑んで貰って店を出られるのはとりあえず気分が良い。サービス過渡期の町中経済の一端を見た気がした。

 通りでは相変わらずいろいろな土産物が売られている。絵はがき、マトリョーシカ、スカーフ、ライターなどの小物などなど・・・。ピロシキなどの食べ物を木箱に入れて持って現れ、売り切ったらすぐに立ち去るおばさんもいる。

 それからおばあちゃんがレース編みを何枚か持って通りの片隅に佇んでいるのを今日もまた見かける。机も椅子もなくただレース編みを胸の前に掲げて立ち、低い声で道行く人に声を掛けている姿は痛々しささえ感じる。軍のバッジや勲章を売っている老人もいる。年金が底をつき、軍事台の勲章を売って生活の足しにしているのだという。ロシアは老人がのんびり暮らせる状態にある国ではないことを痛感する。残念ながら僕たちは軍の勲章の価値を計る価値観を持ち合わせていない。ミリタリーマニアとかなら喜んで買うのかも知れないが、それにしてもいくらぐらいの価値なのだろう。綺麗な金属片と見るか、老人の人生の価値を見るかで勲章の値段は相当に異なるのではないだろうか。

 16:50 2時間弱の買い物を終えバスに戻る。ようやくじっくりと買い物ができ、残金も少なくなり、心残りの事柄もなくなり私たちは満足して帰路に就いたのだった。

 


ハバロフスクへ

 17:30 ホテルに帰着してすぐに夕食。1時間後の18:30にはホテルをcheck outした。ウラジオから一緒に来てくれたAndreさんがここでcheck outの確認に現れ、パスポートを僕等に渡してくれる。彼が同行するのはここまでで、帰りは私たち5人だけでハバロフスクへ向かうことになった。バスで慌ただしく空港へ向かう。行きとは違って天気は悪くなかった。

 19:50 疲れてウトウトしている内にDomodedovo空港に到着。モスクワの案内をしてくれたターニャさん、マキシムさんとここでお別れする。飛行機の便を確認し損なわないようにとターニャさんから注意を受ける。ターニャさんは真面目で親切な人だった。旅行業のサービスの一環とはいえ有り難い。

 荷物を預け搭乗開始を待つ。表示されているサインのほとんどがロシア語で、行き先も便名もロシア語なのでややてこずったが、20:30になんとかSU-025便(飛行機はIL-62M型機)に搭乗する。搭乗してから離陸するまでに結構時間が掛かった。国が大きいせいかここら辺のおおらかさも国際線並みだ。

 21:30 ようやく離陸。「モスクワの夜は更けて」ではないが、夜更けのTake Offだった。街の東はずれからそのまま東方へ飛び去ってしまうので、街の夜景を見ることはできなかった。

 ハバロフスクまでは約8時間のFlightである。帰路は東へ向かうので時間が早く過ぎる。夜が短くあっという間に朝が訪れる。睡眠時間は勢い短くなってしまう。時差ボケのままなら、それが戻るのだから良いのだが、3日間滞在してようやくというか早くもモスクワタイムに慣れ始めてしまったので、東に戻って早起きを迫られるのには、実際この後難儀したのだった。

 23:30 機内食が出る。僕の隣はロシア人のおじさんだった。ただこのおじさん、機内で席に着くなり寝入ってしまった。そして離陸時もシートベルトもせずに寝たままで、更にハバロフスクまで食事もせずにひたすら寝続けていた。あんまり寝たままなので生きているかどうか怪しく思われてしまったが、たまに見ると寝返りを打って向きを変えていたので、それで死んではいないと判るのだった。結局彼は着陸時もシートベルトをせずそのまま寝続けていた。スチュワーデスも彼のシートベルトを別にチェックはしておらず、ここら辺も相変わらず大雑把だった。彼が起きるのを見ることなく僕等は飛行機を降りてしまったが、今頃彼はどうしているのだろうか。そして如何なる理由で彼はあの時寝続けていたのだろうか。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#街並み 海外  #道  #商業系 
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オスタンキノ・タワー

1992-10-15 | ロシア  

1992.10.15(Thu) Moscow

オスタンキノ・タワー遠望

 モスクワ市街の北部にオスタンキノ・タワーはある。市街のガイド地図にテレビ塔は記載されているが、街中からは霞んでしまいあまり見えない。このテレビ塔の足下にはオスタンキノテレビの放送局がある。

宇宙征服者のオベリスク遠望   Google Map
Wikipedia > 宇宙征服者のオベリスク

 また塔の周辺にはジェルジンスキー公園があり、国民経済博覧会、宇宙飛行士博物館などの施設もある。市街を北へ向かってバスに乗っている内にテレビ塔が見えてくる。先端部までで540mあるという塔の高さに比してその太さはかなり細く見える。遠くから見ると本当に500mもあるようには見えない。しかし近づくにつれ、見上げると首が痛くなりそうなくらいに高い建物であることが判ってくる。

オスタンキノ・タワー   Google Map
Wikipedia > オスタンキノ・タワー
建設年:1963年着工、1967年完成。
高さ :540m

 13:00 オスタンキノ・タワーに上る。塔の構造はRCで、下の方はスカートのように広がっており、全体としては巨大なロケットのような形をしている。これだけの高さのものをかなりの自重があるRCで造ってしまったのはすごいことだ。

オスタンキノ・タワー展望室から

 塔に上るために必要なチケットはマキシムさんという男性が手配してくれていたのだが、その人の到着が遅れたので塔の下のエレベーターホールでしばらく待つ。

 テレビ塔は情報関連の重要な施設なので、出入りの管理はかなり厳しい。東京タワーではセキュリティチェックなどは大してないが、ここでは身体検査と荷物検査が入念に行われる。その後、上海のテレビ塔でも同様の体験をして、テレビ塔とはそういうところなのだと再認識したのだった。オスタンキノテレビはその後、94年のクーデターの際、反乱軍が占拠し、そこへ戦車が突入する様子と、銃撃戦の映像で世界にも報道された。たしかにテレビ局は政治的にも重要な施設なのだ。

展望室から市内

 展望室は地上337mの場所にある。東京タワーの先端部よりまだ高い。当初は世界最高の高さであったこの塔は、1992年時点で自立型のものとしてはトロントのテレビ塔についで世界第2位(RCでは未だに世界一)だった。確かに高い。しかし期待したほどの感慨はない。塔が街の中心部から離れているため周辺に大きな建物や、有名な施設がないため、塔からの景色にはそれほどの特徴はない。それでもせっかく来たのだからと、一応いろいろな方向の写真を撮っておく。市街の中心部は霞んでしまってほとんど見えない。

展望室から市内 直下のビルはオスタンキノテレビ  Google Map

 地上328mにある展望レストランで昼食をとる。レストランは回転式で、座って食事をしている1時間ほどの内に一回転した。高さが高いので風の影響を受け、座っているとゆっくりとした揺れを感じるのだった。ちなみにこのレストランは、8年後の2000年にタワーで火災が発生したため、その後、閉鎖されたままなのだそうだ。

 タワーで同行してくれたマキシムさんはキリッとした人なのだが、何となく表情が暗く、また無口なので今ひとつ何を考えているか判らない。サービス用の笑顔を作るのにロシア人はまだ慣れていないのだろうか。食事の時にもむっつり黙って外を眺めているので、どうもこちらも話しにくく、やや困惑してしまうのだった。

 14:30、タワーを出て市内に戻る。



オスタンキノ・タワー パンフ
1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#パノラマ  #眺望  #塔  #モニュメント  #公園  #街並み 海外 
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プーシキン美術館

1992-10-15 | ロシア  

1992.10.15(Thu) Moscow

 10:30 市中のプーシキン美術館に到着。意外に日中は暖かなのでホッとする。

プーシキン美術館   Google Map
Wikipedia > プーシキン美術館
建設年:1898年定礎、1912年開設。

 美術館の建物は玄関部分がギリシャ神殿風で、ガラスの天窓が左右にのびた折衷主義の様式建築だった。

 ロシアと言えばレニングラードのエルミタージュ美術館が有名だ。エルミタージュ美術館は皇帝の収集品を展示したのが始まりだが、モスクワのプーシキン美術館もそれに次ぐコレクションを持っているという。ただプーシキン美術館の方は、市民が芸術に触れる機会を与え、その文化水準を向上させる意図も持っている施設らしく、やや意外なことに古今東西の絵画や彫刻のコピーが多く展示されている。もちろん中には本物も数多くあるのだが、ロシア語の説明書きが分からないので、私たちは本物かコピーかよく分からない。モスクワくんだりまで来てコピーを見せられてしまうのはやや釈然としないが、ここまで来たのでとりあえず館内を見学する。

 エジプトのレリーフ、ギリシャやローマの彫刻、印象派の絵画、近代ではロダンの考える人や、ブールデルの作品など、いずれもコピーで見ることができる。教育目的が重視されているだけあって、小学生や中学生達が集団で見学しているのに出くわす。日本の美術館ではあまり見られない風景なのでちょっととまどってしまう。しかしよくよく考えてみると、精巧なコピーを展示しているのであれば、質の良い作品を安く、身近に見ることができる環境があるのは実は素晴らしいことなのではないかと思えてくる。何も何億もする絵を買うだけが美術鑑賞ではない。コピーでも目の前にそれがあって、体験することができるのは幸せなのかもしれない。

 館内にはロシア正教のイコンも数多く展示されている。学生達は自身のルーツを辿るようにイコンを眺めているのだった。だが教会から取り外されて美術館の綺麗な壁に吊されたイコンには、宗教的な力がやや感じられず、単なる美術品にしか見えなくなっているような気がした。そこらへんは、社会主義、共産主義国家として、宗教の存在自体がいったん消滅してしまったという事実にも遠因を求め得るのかもしれないとも思われる。

 内部中央には3F分程度の高低差のある大階段室があり、建築的にもそれなりに楽しめるものだった。この時点では私はまだ西欧諸国の優れた様式建築を見ていなかったので、この美術館の立派な造りには結構感動した。しかし彼等がなぜ私たちをここへ案内したのかは結局判らずじまいなのだった。

 12:15 美術館を出てオスタンキノテレビ塔へ向かう。ここで昼食らしい。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#吹き抜け・アトリウム  #屋内階段  #ミュージアム  #新古典主義 
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ツェー・デー・テー・ホテルにて

1992-10-15 | ロシア  

1992.10.15(Thu) Moscow

 05:30 起床。結局モスクワ滞在中はずっと時差ボケのままだった。しかし徐々に就寝時間と起床時間が後ろにずれており、日本では昼頃起床という状態。帰国後に普通の生活に戻すのがつらそうだ。昨日、ホテルに戻ってから倒れるように寝てしまったので、起き抜けに風呂に入る。

 06:30頃、薬を飲むためにお湯をコップ一杯貰う。モスクワ滞在中、疲労で頭痛がしたりしていたので、大事をとって予防的に薬を飲んでいた。ジェジュールナヤと呼ばれるフロアサービスのおばさんに廊下で声を掛け、ロシア会話ハンディブックを片手にカタコトのロシア語で部屋番号を伝え、お湯をコップ一杯下さいと頼んでみた。最初はうまく言えずにフレーズを繰り返したが、その内面倒になってガイドブックをちょっと見せながら話す。するとおばさんはわかったという顔をしながら、比較的はっきりとした口調で正しい発音で僕の言った言葉を復唱してニコッと微笑み、給湯室へと立ち去っていった。私は取り残される形になり、本当に部屋に持ってきてくれるのだろうかと思いながら自室に戻ったが、数分後、おばさんが部屋をノックしてお湯を持ってきてくれた。ここらへん、ちゃんとしたホテルの客室サービスは良い。

 07:30 朝食までに時間があるのにお腹が空いてしまう。しかし食べ物は何もない。空腹なので再び寝付くこともできず、暇つぶしにCNN等を見る。ニュースの英語は多少判るときもあるが、やはり細かいところは付いて行けない。しかし映像があるのでそれなりには理解ができる。日頃、ニュースや天気予報に浸った生活をしているので、情報過疎状態になるとなんとも心許なくなることに改めて気づく。しかし旅行中は別の情報収集に懸命で、世界がどうなろうと知ったことではないという気分であることも事実だ。

 早朝の窓の外はどんよりとしている。天気予報は今日も曇だと言っている。旅行の最後の方になってまた少し時間と気分的余裕ができたので日本の友人らに手紙を書く。

 ロシアに来てから浴室やトイレが興味深かったので、ここツェーデーテーでも浴室の写真を撮っておく。

 また、土産物として買ったマトリョーシカを電話台に部屋の鍵と共に並べ、身の回りの記録写真を撮る。

 部屋の鍵はシリンダー錠で、これまでのホテルに比べれば開け閉めはうまくいく。だがここの鍵にはタマゴ大の鉛の塊が付いていて、これに部屋番号が刻まれており、ポケットに入れるとズッシリと重くかさばる。また鍵穴にさしてドアを開ける際、必ずドアパネルにこの重りが激突して大きな音がする。度重なるこの激突でドアの塗料は剥げ、心なしか板も凹んでいる。何故こんなに重く大きな塊を鍵に付けておくのか、そこら辺今ひとつ判らないままだった。

 09:00 朝食。ロシアの料理はあまり代わり映えしない。日本の食生活は相当にバラエティに富んだものであることを今回の旅行では痛感した。ロシアだってそれほど食文化的に貧しい国ではないはず(いわゆる後進国のように食料自体が不足している国にくらべれば・・・。)なのだが、なんだかこれをずっと食べてるのは飽きちゃうなぁと二週間で早くも思い始めるのだった。

 10:00 出発。出掛けに手紙をホテルで出す。フロントで日本へ送ると英語で言って(Japanと書いてあるので無言でも大丈夫なのだろうが)、必要な金額の切手を買い、ロビーの青いポストに入れるだけだから簡単だ。ただ日本の赤いポストを見慣れていると青いポストはなんだか奇妙に見える。しかし後年、ヨーロッパを旅行してみて、ポストが青い国も結構あることを知った。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧  #ホテル・旅館 
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