アムール川の岸に着く頃には、日は既に沈み、空は真っ赤な夕焼けになっていた。静かな川の夕暮れを何枚か写真に撮る。S氏は早速包みをほどいてラッパを取り出し、誰もいない川に向かって思いっきり吹いていた。でかいチャルメラのようなこのラッパには、押さえて音程を変えるキーがない。従って口元での吹き方の加減で音を変えるしかない。それで出せる音階はドミソだけなので、できる曲は非常に限られ、結局この時S氏が吹いたのは正露丸の曲だった。ドッドドドッド、ミッミミミッミ、ドーミドミソッソッソー、ドッドドドッド、ミッミミミッミ、ドーミドーッ、というCMでもおなじみの例の曲である。正露丸は元々は征露丸だったとかで、日露戦争の時にロシアを征する為に携行した薬だという。それを考えると、現代のロシアでこんな曲を披露するのは実はけしからん話なのだが、この曲しかできないんだから仕方ない。誰もいないし正露丸の曲なんてこちらでは皆知る由もないだろうから、そこら辺は気にしないことにする。
S氏がラッパを吹き続けるので、F氏もおもちゃの太鼓を包みから取り出して、堤防にそれを置いて叩き出す。私は他にすることがないので夕焼けの中の二人のシルエット写真を撮る。正露丸の曲以外にできる曲がないのでS氏は気の向くまま吹き続け、F氏も適当に叩く。あまりにちゃちな太鼓なのですぐに壊れてしまいそうで、当然彼も本気にはなっていなかった。
そうこうする内に孫とおぼしき幼い児を連れた老人が向こうから歩いてきて、私たちを何者かといぶかしそうに見ていた。私なぞは老人がまた何事かロシア語で怒鳴るのではないかとちょっと身構えてしまったが、それは杞憂に終わった。私達が挨拶をすると彼はその曲を続けてくれと言う。F氏は「えっ、こんなの聞きたいんか? ほんまはお腹の薬の曲やぞ、おい」とかなんとか言いながら、また太鼓を叩く。S氏もなんか他の曲ないかなあなどと言いつつ、笑いながらまた正露丸の曲を吹き、正露丸マーチが続く。老人は子供の手を引いて、足踏みをして、ほら踊ってごらん、楽しいよとか何とか言っている。ようやくそこで私たちは彼が続けてくれと言ったわけが判ったのだった。子供もはにかみながらもニコニコしながら跳ねている。しばらくして老人と少し話をする機会を得た。彼はゴルバチョフになって国は良くなったと言った。ソビエト時代は自由がなくて、今思えば唾を吐きたくなるような時代だったという。そのようなことを彼は子供に微笑みかけながらも強い調子で語った。そうかロシアになって平和で明るい世の中になったのだなあと改めて感じたのだった。
その後、これを書いている2014年までに20年余が経った。自由主義経済の荒波にもまれたロシアでは高齢者(年金生活者)が生活苦に陥っているともいわれる。あの時の老人と子供は今どうしているだろう。
19:00 カールマルクス大通りにあるRestaurant Sapporoで、30分遅れでロシア最後の夕食を取る。
20:40 夕食を終えてホテルに帰着。明日は帰国だ。土産物をスーツケースに入れ準備をする。その後、21:30頃から、S氏の部屋でアレキサンドル氏を招いて、ウォッカで最後のお別れ会をする。この旅行の間はツアーコンダクターのアレキサンドル氏にいろいろお世話になった。私達は次第に彼に親近感を持ち、また彼の真面目な人柄は我々に強い記憶を残した。とりわけS氏はウラジオでのヒアリングその他の行動の様々な場面で彼にお世話になったために、非常に去りがたい気持ちになったのだろう。互いにつたない英語で長いこと話をしたのだった。
ところで、話をしている時にK氏がホテル備え付けのポットを絨毯の床にちょっと落としてしまった。すると魔法瓶(古い言い方だが)はいとも簡単にあっけなく中のガラスが割れてしまい、底からお湯が流れ出してきた。ひっくり返して見ると、このポットには底蓋がなく、中の真空のガラスビンが裏から見えているという、いかにもロシア的な代物なのだった。当然外枠との間にクッションが挟まっているわけがないので、ちょっと落としたりするとあっという間に割れてしまう。これじゃしょうがないねなどと言いながらも、最後になってもいろいろあるなぁと思うのだった。こういうこと一つとってもそうなのだが、何故このようになっているのか理解できないことがしばしばあるのが旧ソビエトである。
25:40 飲み会を終えて就寝。
1992年10月 ロシア日記・記事一覧
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