都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

水汲み!

1992-10-06 | ロシア  

1992.10.6(Tue) Vladivostok

 20:30 いちど部屋に戻ってから外に水汲みに出かける。

 昼から既にそうだったのだが、今日はトイレその他の湯水が一切出なかった。つまり断水である。半日、野外の道路上で写真を撮ったりして埃だらけになっているので、風呂に入りたいところだったが、水が出ないのではいかんせんどうしようもなく、仕方なく風呂はあきらめる。歯磨き、洗顔もできないが、トイレだけは何とかしなくてはならない。そこで外の井戸へ水を汲みに行くことになった。

 このような状況に対応すべく、S氏はグム百貨店に立ち寄った折にプラスチック製のバケツをいくつか買ってきていた。しかしそれだけでは各部屋3人のトイレのために備える水としては全然足りないので、僕らは部屋にあった花瓶などを手当たり次第に持って寮を出た。外は街灯もほとんどなくかなり暗い。懐中電灯で足下を照らしながら寮の前の道を少し上り、道の反対側の住宅地の中を数十m歩くと、目指す井戸があった。

 手押しポンプで水を汲み、また寮に帰る。街灯もなく暗い中、路面がガタガタになった歩道を、片手に懐中電灯を持ち、もう一方の手にバケツを持って、水をこぼさぬようにゆっくり歩いて帰る。必要に迫られて手押しポンプの井戸を利用したのは、正直なところこれが初めてだった。まったくロシアくんだりまで来て不思議な体験をするものだ。

 しかしよく考えてみると、ロシアだからこそ、このような体験をすることになったのかもしれない。まぁそこらへん何事も面白い体験ということで納得しようかなと私などは思っていた。だが、同行者のなかには、お金を払ってちゃんと旅行してるのに水汲みとはねぇ、と憮然としている者もいた。それもそうだとも思う。普通ならサービスが行き届かなかったということで、陳謝されて、お代はいただきませんという状況なのであるなと、改めて自分の置かれている状況を理解したりもした。ロシアだからしょうがない等と言っていると、いつまでも甘んじてしまうのかもしれないなぁとも思う。そろそろそこらへんの考え方も改めて貰わねばならんのだろうなぁと、やや複雑な気分になるのだった。

 21:00 ようやく水汲みも終了し、就寝前のひととき、しばし部屋で休息を取ることにする。今日も一日よくあちこち動いて活動した。そこで忘れない内に今日のフィールド調査の結果を整理しておく。どこをどう歩いて、どこで何番のフィルムで誰がどう写真を撮ったか等ということを青焼きの地図に書き込み、ノートに補足説明をし、4年生の2人に教えてあげるという作業だ。後輩はヒアリングをしたりもしなければならないので、僕らに比べると路上調査は少ない。だからできるだけ分かりやすく教えてあげなければならないかなぁと思い、細かく報告してあげる。

宿泊していたウラジオ技術大学ドミトリー・3人部屋の見取り図

 24:00 日記をつけてから就寝。今日も疲れた。深く沈み込むベッドで、翌朝、またまた背中が丸まってしまって辛いとはわかっていたが、疲れて朝まで全く目覚めないのだった。

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夜景ツアー

1992-10-06 | ロシア  

1992.10.6(Tue) Vladivostok

 19:00 食後に夜景を見るツアーに出かける。

中天に輝く月と、丘陵地に造られた新しい団地の夜景

 寮の前で丘の上の団地の方を見ると、月が中天に上り、あたりは薄暗くなり始めていた。

金角湾夜景
金角湾夜景

 例のバスで金角湾の南側の岬の方に行く。寮から丘を越えて町の方へいったん向う。丘の中腹から湾の方を眺めると、夕暮れの空が濃い赤色になり、上空は既にかなり暗くなっていた。

 岬の方へ行って記念碑のある公園に行ったが、あたりは既に真っ暗になり、何が何だか良くわからない。でもって街の夜景が良く見えるわけでもなく、街より湾の外側の暗い海ばかりが見える場所で、結局夜景に関してはあまり楽しむことはできなかった。なぜ、夜景がきれいな展望台でなく、暗い景色しか見えない場所に連れて行かれたのかは謎。

 20:00 寮に戻る。S氏、A氏の部屋にて本日の報告。30分程度で簡単に終わらせる。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#眺望  #夕景・夜景  #住宅系  #海・川・池 
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Field 調査 オケアンスキー大通り6

1992-10-06 | ロシア  

1992.10.6(Tue) Vladivostok

プロパガンダ看板が並ぶ公園

 坂の下の方に戻る。人影のない夕暮れの公園に掲示板が立っている。社会主義を賛美するようなスタイルの掲示板だが、誰もいない景色は、傾いたロシアの現在の状況を見るようで何だか淋しい。

旧日本領事館
建築年:1916年

 フォキン通り(Фокина・Fokin)交差点の角には旧日本領事館のあった建物が残っている。現在は別の用途に使われているが、ペディメントをのせ列柱をつけた、割合にたいそうな建物だ。

 戦前のロシア極東には日本人居留地もあるなど、多くの日本人がいたため、領事館が置かれていたのだが、戦後、それらは無くなってしまった。冷戦の崩壊後、ウラジオにも西側の人間が再び訪れることができるようになったが、私たちが行った時は、まだ開放後、間もない時期で、日本人も少なく日本領事館は設置されていなかった。しかし1995年にS氏がウラジオを再訪した際には、日本人ビジネスマンが増えたのに伴い、別の場所に日本領事館が再び置かれていたということだ。

デンビの館
建築年:1908年

 交差点の反対側には「デンビの館」と呼ばれる建物がある。デンビというのは人名らしいのだが、あまり詳しいことは知らない。ただ建物角のドーム上に、ロシアの三色旗がはためいており、現在はどうやら政府関係の建物らしかった。というわけでここらへんはウラジオでも要所になっているようだ。

 18:00 中央広場に集合する。ここで再びマイクロバスに乗り、皆で寮に戻る。アレキサンドル氏は、全員が何ごともなく戻ってきたので、ようやくほっとした表情を見せる。

 18:30 帰寮、すぐに夕食。温かいご飯が出る。温かいというのは実は珍しい。ロシア式の食事にはようやく慣れてきたが、しかし既にじわじわと食欲が減退して来るのがわかる。最初の内は旅行中の体調を整えるためにもできるだけちゃんと食べようと思っていたが、次第にそこらへんがどうでもよくなって来た。でもって、あまりおいしくないものを無理して食べるくらいなら、食べない方がましかなぁなどと思い始める。健康管理の面からすると、どう考えてもそれは良くないのだろうが、精神衛生の面から見るとそっちの方がずっと良いような気がしてしまうのだった。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#街並み 海外  #古い建物 海外  #官公庁  #オフィス  #モニュメント 
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Field 調査 オケアンスキー大通り5

1992-10-06 | ロシア  

1992.10.6(Tue) Vladivostok

坂道になったオケアンスキー通り

 坂道をロシア製のトラックがすさまじい黒煙を吹き上げながら上って行く。概してパワー不足でのろい。ロシア製の乗用車のヴォルガやラダ、モスコビッチがガタガタ音を立てながらブワァーッと上って行く。車の通ったあとに排ガスの臭いが撒き散らされる。ロシアの車のエンジンが悪くて不完全燃焼しているのか、フィルターが無いのか、ガソリンの質が悪いのかわからないがとにかく臭い。

坂道を上るヴォルガ

 オケアンスキー通りは街路樹があり、そこそこ道幅のある道だったのでまだ良かったのだが、後日、別の上り坂を調査したら、排ガスを大量に吸い込んでしまい、O氏ともども喉を痛めてしまった。ロシアの街を歩くにはマスクが必要かもしれない。坂のある街ではなおのことだ。しかし僕はオールドスタイルのロシア製セダン(特にヴォルガ)がデザイン面では結構気に入っていた。

旧バイカル旅館・シベリア旅館  Google Map
建築年:1896~1898年

 上の方に行くとれんが造りのかなり古い3階建ての2棟の建物があった。1900年代の初期に建てられたという表示があり、かなり由緒や価値がありそうな建物だ。帰国後、資料からこれはバイカル旅館とシベリア旅館であるということが判った。

コマロワ通り(Комарова)

 夕暮れが足早に近づいてきたので、手早く写真を撮って坂をまた下って行くことにする。ふと、横のコマロワ通りを見ると高圧線の鉄塔が建っていた。送電線の鉄塔が歩道上にあるのは、日本人にとってはやや違和感のある風景だ。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#階段・坂 海外  #古い建物 海外  #街並み 海外  #道  #自動車
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Field 調査 オケアンスキー大通り4

1992-10-06 | ロシア  

1992.10.6(Tue) Vladivostok

 以下は、オケアンスキー通りとフォンタンナヤ通り(Фонтанная)との交差点に面して建っている3つの建物。

ウラジオストク市ソビエト執行委員会(ウラジオ市の市庁舎)
2010年時点では「ウラジオ市建築都市局」となっている。

 近代的な外観のオフィスビルだが、頂部に町の紋章がレリーフで大きくデザインされ、更に旗が立っている。実は私はこのちょっとクールな建物が嫌いではなかった。夕日を浴びてキラリと輝く壁面は、彫りが深くごちゃごちゃした陰影を持つ他の建物と比べると、いかにもすっきりしていて、何だか好感が持てるのだった。また中央広場の共産党の建物に比べて小さく、左右対称の権威主義的デザインになっていなかったのも良い。

 だが中に入ってみると1階ロビーは省エネのためか薄暗く、市役所だというのにあまり人影もなく、何だか奇妙な雰囲気だった。またエレベーターは例のごとく呼び出し式で、近代的外観とは裏腹に内部は情けない設備状況だった。この傾向はここだけではない。建物の1Fはほとんどの場合ロビーもしくは玄関で、閑散としているケースが多く、しかもみな薄暗く人影が少ない。まちなかにはところどころに廃墟があったりもする。

極東貿易大学
2010年時点では「太平洋国立経済大学」
大学名が変わったのか、移転して入れ替わったのかなど詳細は不明。

 更に坂を上って行くとカレッジの建物がある。当時、僕はまだヨーロッパに行ったことがなかったので、ヨーロッパ調のこのような建物を見ると結構嬉しかった。もちろん今見てもなかなかのものなのだが、若干デザインのされ方において不思議な箇所が散見されるのが、ウラジオの建物群の特徴である。カレッジは交差点に面した角に玄関や階段室を設け、5階部分にアーチをかけたデザインになっている。

極東貿易大学

 端にある一つの入口から中庭に入り、振り向いて見上げると、中庭側にもバルコニーがあるなかなかきれいな建物だった。しかし書割りのような付け柱と、パステルカラーのようにペタペタと塗った外壁の色が、どこか安っぽさやかわいらしさを感じさせる。

旧電信局
建築年:1898年

 資料には旧電信局と記されていたが、現地滞在の時点での用途・名称などは不明。コーナーに小さなドーム状の屋根が載る比較的小規模な建物。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#古い建物 海外  #街並み 海外  #大学  #官公庁  #オフィス  #新古典主義  #モダニズム 
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Field 調査 オケアンスキー大通り3

1992-10-06 | ロシア  

1992.10.6(Tue) Vladivostok

セメノフスカヤ通り(Семёновская)交差点
ジープが急な坂道を横切る。
右方の低層部が貴金属店

 貴金属店に入ってみる。やはりめぼしいものはなく、品薄で今一つの状況だった。金メッキのさじが170~200RB(約70~80円)、ダイヤの指輪が74,000RB(30,000円弱)、カード状のデジタル時計が743RB(約300円)、アナログ時計340RB(約140円)、指輪17,000~20,000RB(6,800~8,000円)等だった。F氏によると、ギターは500RB(200円)位で、品物が到着する端から売れて行ってしまうようだったとのことだった。

 本屋さんには相変わらずめぼしいものがない。また、買われると補充の在庫がなさそうだ。それから、どこの本屋もそうなのだが、本を買ってお釣りがカペイカのレベルになったりすると、お釣りが無いという理由で、バースデーカードなどを勝手に追加されて、RBに切り上げられてしまう。

 一方、バス、トロリーバスなどの公共交通は1RB。公衆電話も1RBだが、硬貨を受け入れる部分が壊れてたりして、そのまま掛かったりしてしまうことも。少額貨幣の価値がめちゃくちゃだ。

 しっかりした建物の中の店舗にはあまり品物がなく、客も少ないのだが、路上には小屋状の仮設売店-キオスクが沢山ある。特にTAXI、BUS乗場等の付近には非常に多く、そこにはやたらに人だかりができている。キオスクの方にはなかなか品物があるのでちょっと驚く。多くはジュースや菓子、たばこ、酒、雑貨の類、衣料品などであるが、時々ラジカセなんぞを売っていたりして、これにもまた驚いてしまう。

 路上でピロシキを売っていたが、ここでも10人以上が並んでいた。売り切れてしまえば即閉店。ゲリラ的に出店されるので、見つけ次第買わないとずっとありつけない。なんなんだろ?

薬局

 この日の調査地域にはあまり店がなかった。ウ~ム、これはちょっと残念。広場のそばの地下道には数軒の店が出ている。また個人の間のやり取りも多く見られる。非合法なんだかどうだか良くわからんが、宝くじのようなものもやっている。しかし売り場が少ない、またはないので、何屋だか良くわからない。まぁたとえ看板が出ていても僕らには読めないからワカンナイんだけど。それでも商店の看板には文字に並んで記号というかマークがついているので、多少は業種がわかる時がある。例えばАПТЕКАという看板の脇には蛇と天秤のマークがついていて、およそ薬局だということがわかる。でもこのように推測、理解できるものはやっぱり少ない。

 道行く人々の服装は割合キレイだ。これはちょっと不思議だった。革ジャンやジーンズが少し多いかなとも思う。ジャージを着ている連中は危ないといわれていたが、何となくそれはわかった。一度だけ、ジャンパーの間からピストルの銀色の銃身を見せながら歩く輩を見かけ、これには少々焦った。

 ごみは少ない。というより大量に出せるほどモノがないのかもしれない。また、あちこちの建物の入口に花の形をしたようなごみ箱?が置かれていて、皆が適当にごみをそこに捨てているので、路上にごみ屑が散らかっていることは少ないようだった。

商店(職種不明) スプレーのペイントがかなり雑。

 旧市街の建物はほとんどがレンガ造モルタル仕上げまたは石造のようで、RCは少ないようだ。もしかするとコンクリートブロック造かも知れないのだが、表面をペイントして適当に石造っぽく仕上げているので、一瞥しただけではよくわからなくなっている。一方、中心部から少し離れた所の中高層アパートメントはほとんどがRC のようだ。

 道路は舗装をしなおしても、皆がその上を平気ですぐ歩いてしまい、車も走り回ってしまうため、またガタガタになってしまう。まったくよくわからんことが多い町というか国だ。

 オケアンスキー通りは中央広場からどんどん丘の上に向って上って行く道だ。傾斜がかなりきついので、坂に沿った建物は上の方では5階建てが4階建てになってしまう。坂を上って振り返ると、中央広場にある高い台座の上に立つ銅像が港の方に見えて、なかなか晴れやかな気分になれる良い眺めである。

 高緯度の国の夕方は陽が早くから傾き、長い影ができて、10月だというのに東京の冬至の頃のような感じになる。空が真っ青に晴れてコントラストが高い景色は透き通ったような感じだが、実際は排気ガスや砂ぼこりで埃っぽい。

 ウラジオにはトロリーバスと路面電車が走っている。そこで市内の主な通りにはこのような公共交通機関のための架線が縦横に張られている。私個人はこのような景色に実は僕はあまりお目にかかっていなかったのでとても興味深かった。乗り物のある風景は良い、そして乗り物のある町は良いと、単純に童心に帰って楽しくなってしまう。

 ウラジオの場合、町中では石造の恒久的な建物が、道路に接して連続して建っているので、架線を吊るワイヤーは基本的に建物から張られている。日本だったら管轄とかの関係で、わざわざ道路脇に柱を立てて架線を張らねばならないところだが、そんな必要はなく、いきなり壁面からフックを使ってワイヤーが張られているのが興味深い(あとあと、ヨーロッパに行って、向こうでは割とこれが当たり前だと知るのだが・・・。)。

街区内部の建物

 私たちはフィールド調査の際に、S氏から青焼きの地図を持たされていたが、これには、見て写真を撮って来るべきポイントが記されていた。その一つに日本人が住んでいた頃にあった日本人学校の建物があった。その写真を撮るために街区内部に入ることにする。

 街区の内部はやはりプライベート性の高い空間なので、入るのには多少、勇気を必要とする。アーチ型になったゲートを通って恐る恐る進むと、三角形の中庭があり、レンガ造の2階建て建物があった。街区の外側とは異なる小振りな建物で、やはり古いように思われたので、これが目指す建物だろうと考え、写真をスバヤク撮る。中庭部分にはあまり人影はない。人が来ておまえら何者だとか言われても、何を言ってるかわからないし、説明のしようもないので、このような場所では地元の人には会いたくないであるな、などと考えながらスタスタと出てきてしまう。しかし後年、これは日本人学校ではなかったことが判明した。これまた残念。

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#階段・坂 海外  #道  #モニュメント  #商業系  #街並み 海外
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Field 調査 オケアンスキー大通り2

1992-10-06 | ロシア  

1992.10.6(Tue) Vladivostok

道ばたのキオスク

 フィールド調査の途中で、道端にあるキオスクでびん入りペプシを売っていたのでつい買ってしまう。ウラジオストクでは西側製品にお目にかかることがまだ少ない。だから飲み物が見つかった時にはちょっと嬉しかった。このペプシ、日本円にするとエラク安いのだが、現地の物価からするとべらぼうに高い代物で、国営商店に置いてあるロシアン飲み物の数倍の値段である。でも見ていたらきれいな女の子たちが歩きながらペプシを飲んでいたので、さほど特殊で高価な飲み物であると認識されているわけでもないようだ。ここらへんどうも相変わらず理解に苦しむ状況である。

 ロシアでは商品はいつでも買えるわけではない。いろいろな物がしばしば売り切れてしまい、そうなったら当分の間、買うことができない。次の入荷がいつになるかも全く分からない。キオスクや露天商の場合、下手をすると店自体がない。ということでお金があって物がある場合には、即これを買ってしまわねばならない。従って僕らはいつ飲むかはわからないが、とにかく現地の流儀に従うことにして、びん入りペプシを二人で4本も買って寮に持ち帰り保存することにした。

配給を待って行列する人々

 パン屋の前には開店前から20人ほどの行列ができていた。そういうことで一日の内の何時間かを使ってしまうのは、結構な経済的損失であるような気がする。物がないのだから仕方ないといえばそうなのだが・・・。

道行く人々

 それからウラジオでは意外にきれいな女の人が多かった。またカメラを向けると気軽に撮らせてくれたりする。ロシアの人は極東でも基本的に白人(白系ロシア人)であるが、中国系や、少数民族系の人々もこれらの中に混ざっており、なかなか多様な民族構成になっている。

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#街並み 海外  #商業系 
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Field 調査 オケアンスキー大通り1

1992-10-06 | ロシア  

1992.10.6(Tue) Vladivostok

オケアンスキー大通り(Океанский проспект)調査

 15:15 再び寮を出発。いよいよ午後はウラジオに来て初めてのフィールド調査である。調査内容は、地図上に示された建物の写真撮影と交差点の写真撮影、道幅チェック、主な建物の用途把握など。ここまでいつも全体でひとまとまりの行動だったが、ここでは海外で初の通訳なしでの行動となった。この調査作業は楽しみでもあり、少し不安でもあった。

 アレキサンドル氏はツアーコンダクターとしての責任から、ウラジオは危ないところだから、あなたたちだけで動いてはいけないと言うのだったが、そこは昨年、いちど来たことがあるS氏やA氏が、大丈夫だからと説得したようだった。ただやはり単独行動はどうしても不安であるとアレキサンドル氏が言うので、こちらも妥協して二人一組以上で回ることにした。調査をする際には2~3人で行くのが何かと便利なのでこれには全く異存がなかった。

中央広場前のスヴェトランスカヤ通り(ул. Светланская)
左は沿海州共産党本部ビル
路肩に停車しているのは、Lada 1500/1600(左)
通りを走っているのは、Moskvitch 412のタクシー(右)

 15:30~Field Survey。約2時間半の間、O氏と二人でオケアンスキー大通りを調査する。

極東漁業大学  Google Map

 当時のロシアでは写真はまだ一般的ではなく、何かの記念にしか撮らないようで、人物ではなく建物や街並みを撮るのは、非常に珍しく目立つ行為だった。また、ただでさえ日本人は目立つのに変なところで写真を撮ったり、道幅を調べたり地図を見て記入したりするので、不審に思われる可能性が十分あった。例えばスパイ活動(スパイはそんな目立つことはしないか・・・。)のように思われると、非常に危険だということも想像された。

 通訳なしで行動するため、職務質問的なことになると面倒なので、僕らは添乗員のSさんに活動内容と身分を書いた紙を作って貰って、いざという時はそれを見せることにしていた。途中でO氏は、現地の人に「何してるんだ?」と訊かれて(たぶんそういうことを言っていたんだと思う。)、これやってるんですとそのカードを見せて納得して貰った。いやぁこのカード作っておいて良かったねぇ、と海外初めて組の二人はほっとしたのだった。

 一方、私は韓国人とおぼしき大学生に英語で、何やってるのか?、どこから来た?、どこの大学の何年生なのか?、どこのホテルにいるのか?、等々いろいろ尋ねられて、ちょっと閉口してしまった。だが、これはお互いたどたどしい英語で、なんとか意思の疎通が図れるのでまだマシだったかもしれない。当時のウラジオにはまだほとんど東アジア系の人は居なかったので、たぶんその留学生は同じ韓国人かと思って声を掛けてきたのだろう。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#道  #高層ビル  #自動車  #官公庁  #大学
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書店 その2

1992-10-06 | ロシア  

 13:00 アルセーニエフ歴史博物館を出る。お昼も過ぎてご飯を食べたいところだったが、本屋さんへ連れて行かれてしまう。昨日とは別の本屋で、こちらは「友好」という名の店だったが、はっきり言ってこちらも大したものを置いていなくて、僕らは「あ~、やっぱりなんにもないや。」などと、日本語がわからないであろうことを良いことに、結構失礼なことを言いつつ店を出てしまった。

 外に出ると不思議なことに本の露店(ワゴンセール)をやっているおばさんがいた。どうも店とは関係がないらしく、本を買いに店へやって来た人目当てに、自分も本を売っているようだった。そして、こちらの露店の方が僕らにとっては魅力的な本があった。実際、外の方が良い本を売っていて、当然その値段も高い。日本では露店で売っているものには安物が多く、贋作、海賊版だったりしてあまり購買意欲が湧かない。だがロシアではどちらかといえば露店の方が良いものを売っていることが多い、ということにこの後あちこちで気づくことになる。

 この露店でもいろんなペーパーバックがよりどりみどりで、長編小説に混じって、露英辞書、英語の教科書らしき本などが売られていた。ただし、みな一冊ずつ位しかない。そしてその中になんと「日本」という本が売られていた。最近、隣国日本に関する興味が増しているという噂は聞いていたが、こんなところでこのような本に遭遇するとは思わなかった。

 手に取ってぱらぱらとめくってみると、どうやら日本語会話を勉強するための初歩の教科書らしい。絵入りで様々な例文が並んでいる。でもちょっと見ただけでもいくつか間違いがあり、文字が横向きだったり、上下逆だったりする。日本人や中国人等、漢字圏では当然のような事実がめちゃくちゃなので、逆にこっちがびっくりしてしまう。

 教科書からしてこうなのだから、一般の人はほとんど日本語を知らない。最も日本人もほとんどロシア語を知らない。かくいう僕もロシアに行ったのに覚えた言葉は結局5つぐらいしかない。だから昨日のヒアリングのように、お互いの話を正確に伝え、理解するのにはとても骨が折れるというのが、今となってはとても良く納得できるのでした。

バス車内から

 13:50 バスに乗って帰寮。中心部とドミトリーの間は、バスだと10分程度であっという間だが、これを歩くと、丘を一つ越えるのがなかなかしんどいようだ。実際ロシア製のマイクロバスは、毎回その丘の上り坂をウンウン唸って上っていた。別に満員にして走ってるわけではないのだが、それでもこのバスにとってはきついようだった。確かにかなりの急坂がずるずる続いて大変なところだったが、でも日本のバスだったら、グイグイ上ってしまえる程度ではないかと思う。そこらへんやっぱりロシアなのだ。

バス車内から 路上駐車したトラックの荷台から野菜を買う

 14:00 昼食。朝に続いて昼もスパゲティだった!。この他スープが出る。

 15:00 昼食を終えて、部屋にいったん戻って休憩。ハンモック型ベッドは一晩寝ると背中が痛くなってしまうが、ちょっと休憩する時には、包まれてしまうような感覚がなかなか良い。疲れた体を少しの間だけ預けてしまう。ばたばた行動していると旅行前半なのになんだか疲れてしまう。実はお昼休みというのは大切なのですね、と気づかされる瞬間なのだった。

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アルセーニエフ博物館

1992-10-06 | ロシア  

1992.10.6(Tue) Vladivostok

アルセーニエフ博物館(アルセーニエフ記念国立沿海地方博物館)
建設年:1906年
Google Map

 11:00 アルセーニエフ博物館到着。説明を受けた上で館内の見学。

 アルセーニエフ博物館は、1922年まで横浜正金銀行が浦潮支店として利用していた建物。駅前の一等地にある。屋根上に電光掲示板は1991年に設置された。ウラジオ初の電光掲示板だという。

 ウラジオストクの古い写真集などの資料を見て、写真撮影したいので了承を得ようとする。最初の内は手続きが必要である、と言っていたので半ばあきらめかけていたが、ちょっと待っている内に話が進んで、写真OK、窓際で直射日光の下での撮影もOKとなり、2冊の写真集の全てをG先生がフィルムに収めてしまった。ただ、写真集の撮影を手伝って一枚一枚見た限りでは、どうも街並み写真はあまりなくて人物写真が多いようだった。

アルセーニエフ博物館 階段室のステンドグラス

 館内の展示は基本的にロシア語のみなので殆どわからない。しかし図表現などにより、大意がつかめる場合もあり、ウラジオストク及び沿海州の歴史に関しては少しは勉強になった。でももうほとんど忘れちゃったけど・・・。また写真集の撮影に結構時間がかかって(12:30頃迄かかってしまった。)、展示をじっくり見ることができなかったのが少し残念だった。

アルセーニエフ博物館から、スヴェトランスカヤ通りと沿海州共産党本部ビル
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#古い建物 海外  #屋内階段  #道  #パノラマ  #ミュージアム  #銀行・保険  #20世紀 
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