都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

日比谷交差点

2007-06-14 | 千代田区 

東京新旧写真比較(1981/2007) No.9 千代田区有楽町1丁目から

 同じ構図の場所を探してみたら、第一生命館の前にあるバス停からの写真だった。

Photo 1981(ノーマル時)、Photo 2007.1.28(マウスオン

 1981年当時、写真中央の富国生命ビル(1980完成)はできたばかり。右隣の日比谷国際ビル(1981完成)は建設最終段階だったらしく、屋上に小さなクレーンが載っている。

 左方、屋上のアンテナが目立っているのは三信ビル。朝日生命日比谷ビル(現 日比谷マリンビル)が角地でちょうど建設中で、この時点では、三信ビルの側面が、丸の内方面からもよく見えていた。三信ビルは、最後まで残っていた1Fのレストランが3月末に閉店し、5月から解体が始まったという。2007年1月のこの写真も、三信ビル最後の頃のものということになった。

 その右側、横連窓と各階のベランダ庇が特徴的なのは日比谷三井ビル(1960完成・SRC9F)。こちらはまだ半世紀も経過していないのだが、解体と再開発が計画されているのだという。鹿島建設のHP内にある、「ビル進化論」を見ると、当時としてはかなり大きな建物だったことが分かる。十分効率的に土地を使っているように見えるが、建て替えをしてでも、もっと効率的に使いたいらしい。

 細かいところを見ていくと、日比谷三井ビルの奥に、角部分が見えているのが帝国ホテル本館(1970完成)。こちらはまだそのまま。また、三信ビルのアンテナの後方に高層部が見えていた、旧第一勧銀本店(現みずほ銀行本店・1980完成)は朝日ビルに隠れて見えなくなった。反対に、2007年の写真では、三信ビルの奥にやまと生命本社(旧 大和生命本社ビル・1984完成)のガラス壁面がちょっとだけ見えている。

 それから、この場所からは、帝国ホテルと富国生命の間に東京タワーが見えていたが、日比谷セントラルビルが1983年に完成したことで、先端しか見えなくなってしまった。

 富国生命の手前には、日比谷公会堂が今も見えているが、隣の日比谷プレスセンタービルは、公園の樹木が成長して見えなくなった。公園の向こうには旧日本長期信用銀行(現 新生銀行本店)と大同生命霞が関ビルなどが建ち、高層部が見えている。また1981年の写真では、右端にわずかに霞ヶ関ビルが見えている。だが現在は霞ヶ関の合同庁舎に隠されて、これも先端のアンテナ部分だけしか見えない。

 26年を経て、日比谷の景色は変わったと言えば変わったが、意外に変わっていないとも言えるかもしれない。ただ三信ビルが解体され、日比谷三井ビルも解体・建て替えということになると、やはりかなり変わってしまうことになるのだろうな。

三信ビル:その1その2その3その4Blog版 その1その2

以下「超高層ビルとパソコンの歴史」から、個々の超高層ビル情報へのリンク

富国生命ビル日比谷国際ビル日比谷セントラルビル
旧第一勧銀本店(現みずほ銀行本店)
やまと生命本社(旧 大和生命本社ビル)
新生銀行本店(旧日本長期信用銀行)大同生命霞が関ビル

#東京新旧写真比較 千代田区  #失われた建物 千代田区 
#街並み 千代田区  #高層ビル  #塔
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブリキヤ國嶋

2007-06-12 | 文京区  

 いま思えば、もう少しいろいろ撮っておけばよかった。

ブリキヤ國嶋
所在地:文京区根津2-14-15
構造・階数:木2
解体年:1997〜2000(平成9〜12)
Photo 1995.5.14

 茨城県職員東京宿泊所のすぐそばにあった木造二階建て。この一枚しか写真を撮っていなかったので、もう一度見に行こうと思っている内に、いつのまにか無くなってしまった。周辺も含めてもう少し引いた全景があると良かったのだが、なくなったものは撮りようがない。

 お仕事でもあるブリキで飾られた看板建築だと思っていたが、改めてよく見てみると、どうも看板建築ではなかったようだ。一階の庇部分はブリキで覆われ、その上に金属製のベランダがあって、この部分は洋風。でも二階の軒部分は出桁造りで、トタン葺きの傾斜屋根が見えている。通り側の全面に洋風の壁面を貼り付けたいわゆる看板建築ではない。どちらかというと、一部を洋風にアレンジした出桁造り家屋という方が良いのだろう。

 真っ赤な軒と黄色の文字、水色の手摺という結構派手な取り合わせがとにかく印象的だ。中央に付いてるのはむき出しの小さな蛍光灯。夕方になるとそこだけ灯りが点いていたのだろうか。左側に付いてる「ナショナル雨どい」の看板も今更ながら気になる。

 ネットで調べた限りでは、いつ頃の建物なのか、またいつ頃まで在ったかなどは不明、というか建物自体の情報がほとんど無い。根津近辺に住んでいた人にとっては馴染みのある建物だったと思うのだが、デジカメが普及し、HPやBlogで古い建物が個人によって紹介されるようになった頃には、既に無くなっていたのかもしれない。


2022.8.14 追記
 住宅地図等で調べたところ、戦後の火災保険特殊地図(1953年)では「島田ブリキ」とされていた。その後、1973(昭和48)年の住宅地図では「国嶋ブリキ」となっており、1997(平成9)の住宅地図までは同名で掲載されている。ただ、2001(平成13)には駐車場になっているので、1997〜2000年の間に解体されたものと思われる。

国嶋ブリキ店、他/根津2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 文京区  #商業系  #出桁造り 
ブログ内タグ一覧
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清正公前の木造住宅

2007-06-10 | 港区   

 清正公前の交差点のすぐそばの三角地帯に建っていた古い木造家屋。

山口邸
所在地:港区白金台1-1
建設年:1882~84(明治15~17)頃
構造 :木造
Photo 1995.2.23

 なにかの資料で建設年を見たのだが忘却してしまった。藤森照信氏の著書もしくは港区の資料だったような気がする。たしか幕末か明治期の建物で、都心では数少ない事例だと言われていた(下部に追記しました)。江戸期以来、代々米屋だったのだとか。ただ残念ながら、数年前に解体されて、現在、現地はマンションのモデルルーム+仮設的オフィスになっている。

 鬼瓦が大きく立派で、平屋だが堂々とした建物だった。内部は知らないが、外観から想像すると、屋根裏のようになった階高の低い二階がある、いわゆる逗子二階の出桁造り家屋だったように思う。

 交差点そばの三角地帯で、孤立したようになり、周辺を大量の自動車が行き交っていた。

 この建物の東側を南北に通る桜田通りは、震災後に開通した大通り。西の方から来る目黒通りがそれにあわせて東へ伸ばされ、現在の清正公前交差点へ至るようにされたため、この建物の一角は三角地帯となって取り残された。もともとは目黒通りは写真右手前で曲がり、この山口邸の前を下って、東南方向、高輪の二本榎通りの高台へと向かっていた。写真中、後方の白いマンションと煉瓦色のマンションの間へと、道が繋がっていたわけで、この建物の両側にも大正期以前は家屋が建ち並んでいたはずなのだが、桜田通りの新設と交差点改造によって、街並みが分断され、この家だけが取り残された。

 なぜ交差点のそばに奇妙な三角地帯があるのか、以前から不思議に思っていたのだが、今回、地図で変遷をたどってようやく了解。通りを挟んだ南側には、たしか今も長屋があるが、通りの構造が大幅に変わり、建物も無くなったため、往時の街並みの雰囲気はほとんど失われてしまったのだろうな。


2007.6.17 追記
 コメント欄にもあるが、この記事をきっかけにGG-1さんのブログ「Roc写真箱」に、とても雰囲気のある写真が掲載された。→「取り残されて
 自動車の灯りが流れる中、白熱灯が一つだけともる姿が印象的だ。また、私の写真では陰になって全く分からない玄関先の様子がよくわかる。庇を支えるために、腕木金具が付いていたのは知らなかった。完全に木造和風住宅なのに、そこだけちょっと洋風っぽいしつらえだったのがおもしろい。


2007.07.11 追記
 「看板建築」藤森照信著、三省堂選書、1994、p.27に、この山口邸は掲載されており、明治15~17頃に米問屋として造られたこと、旧江戸の市域内で最古の出桁造りと考えられると、書かれていました。
 やっぱり藤森先生の本だったー。

Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 港区  #出桁造り  #住宅系 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菱進浜離宮ビルヂング

2007-06-07 | 中央区  

 新幹線からも見えていた竹中さんの建物は、築30年で取り壊されてしまった。

菱進浜離宮ビルヂング
所在地:中央区銀座8-21
建設年:1976(昭和51)
構造・階数・高さ:SRC・20F・80.8m
備考 :竹中工務店・竹中土木 東京本店
    浜離宮庭園入口付近から撮影。左手は建設中の電通本社ビル
    2005-2006に解体。
Photo 2000.12.2

 竹中工務店・竹中土木の東京本店が入居していた建物。全館を竹中さんが使っていたので、てっきり竹中の自社ビルかと思っていたのだが、賃貸だったらしい。かなり大きな建物だったのに、あっさり壊されてしまったのは予想外だった。20階建て以上のビルが解体された例は、全国でも数えるほどしかない。

 シンプルな箱形のデザインがモダンで、こうして改めて見てみると、かなりスタイリッシュな建物だったんだなと思う。柱・梁の太さと間隔、窓の形や大きさが絶妙なバランスで美しい。なぜこんなにきれいな状態の建物を壊してしまったのだろう。もったいなさ過ぎる。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中央区  #新しい建物 中央区  #高層ビル  #オフィス  #モダニズム 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所坂上から

2007-06-06 | 目黒区  
別所坂上から、遠方は目黒川・祐天寺方面
所在地:目黒区中目黒1-1と2-1の間
Photo 2007.6.5

 昨日は、早稲田大学エクステンションセンター講座「江戸・東京の風景学1」で、まちあるき。ルートは恵比寿-代官山-西郷山公園-菅刈公園-目黒川-中目黒-別所坂-恵比寿。天気も良く、快適なまちあるき。

 別所坂は、中目黒駅の東方で、目黒川沿いの低地から屈曲しながら恵比寿方面へ上る急な坂。上部の一部が階段になっているため、通り抜ける車はない。坂上からは遠くの街並みが垣間見えて気持ち良い。この別所坂同様、目黒川の北側には高台へ上る急な坂がいくつもある。

 一方、高台の端にある西郷山公園などは眺望が良いことで知られている。眺望の構造としては、目黒川の谷を挟んで視程距離を確保し、眺望を得るもので、西南向きに得られるこの眺望構造と眺望体験は、この一帯の地域的特性の一つの手掛かりにもなっている。南向きに開けた高台という場所が持つ、明るく開放的な地理条件がもとになって、お屋敷町が生まれ、それが更に山の手特有の高級感やニューファミリー的なイメージと繋がって、代官山、旧山手通り、松濤といったハイセンスでファッショナブルな街が生まれる。

 目黒川左岸(北側)の高台は、代々木方面から松濤、青葉台、中目黒を経て、御殿山、白金台、高輪、三田に至る高台で、南東部は芝・白金台地などと呼ばれている。山手線の西側の高台が、高輪や三田の高台と地理的には繋がっているというのはちょっと意外だが、江戸期にお屋敷町があった同じ台地に、場所を替えて近代以降もお屋敷町が広がったというのは面白い。

目黒区のHP > 別所坂
当日参加の方の記事:kaoru photo...2 > 別所坂上
#階段・坂 目黒区 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする