「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

教練の査閲の想い出 世田谷公園(練兵場跡)

2018-05-23 05:05:29 | 2012・1・1

昨日、75年来の近所に住む旧友二人とバスに乗り都立世田谷公園へ散策に出かけた。皐月空の下、雲一つなく、80老にとっては、まさにいのちの洗濯日和であった。世田谷公園は戦前まで陸軍の輜重(しちょう)聯隊などの兵舎があり、その訓練の練兵場があった。その広大な敷地の一角を戦後、都が造成して公園にした。世田谷区の池尻、三宿、下馬から目黒区の東山にかけての広陵地帯だが、戦後70年たって今では敷地の大部分は自衛隊の病院や一般の学校、公営団地などに生まれかわり、かっての”つわものたち”の足跡はこの公園にしかない。

僕らは昭和19年(1944年)11月、中学(旧制)2年の時、この練兵場で教練の査閲を受けている。戦前、中学では学科の一つに教練があり、高学年では実際に銃を持ち軍事教練をした。そして、年に一回、その成果を問う軍の査閲があった。今では査閲の場所は特定できないが、僕は東急東横線の中目黒駅から歩いて出かけた。寒い日で僕はすり減ったズック靴のツマ先に保温のため唐辛子を入れていたのを何故か覚えている。

査閲は分列行進が中心で見事合格したが、そのころから東京では空襲が激しくなり、僕らは空襲警報のサイレンが鳴るたびに学校へ駆けつけ、防空壕で待機する日々が続だいが、年が明けた20年1月、軍需工場へ学徒動員された。こどもながらに、厳しかったあの頃の日々が忘れらない。

”つわもの”どもが訓練に汗を流した練兵場跡の公園では、若者が上半身裸で日光浴していた。僕ら80老も久しぶりにビタミンDの恩恵に浴し、持参したお茶でお互いの長寿を祝して乾杯し弁当を食べた。
(注)輜重聯隊 旧陸軍の兵站部門を担当した後方部隊











体験的健康寿命を伸ばす方法

2018-05-22 04:59:29 | 2012・1・1
厚労省が2040年までに健康寿命を3年延伸する方針が新聞に出ていた。健康寿命とは日常生活を支障なく送れる年齢。男性は72.14歳、女性は74.74歳(平成28年度)だそうで、お陰様で、われわれ老夫婦とも、合計年齢172歳でこれをクリアしている。厚労省の方針によると、その骨子は「ガンゲノム医療」の促進と「フレイル(虚弱)」の予防策だという。カタカナ用語で良く解からないが、「ガンゲノム医療」とは、ガン患者の遺伝子の変異を調べて最適の治療薬を投与すること、また「フレイル」とは、老人の筋力や認知能力の衰えからくる気力や活力の落ち込みを予防しようというものだ。

役所言葉でよく理解できないが、二人ともガン手術を体験している。僕は70歳から17年間に膀胱ガン4回、大腸ガン2回、老妻も乳ガン1回入院手術しており、年に4回、事後チェックのため通院しているが、抗がん剤は服用していない。二人とも要介護1の認定は受けているが、サービスは受けていない。今のところ、他人の世話は受けずに日常生活は送れており、健康寿命続伸中だ。

一病息災というが、ガンの被病で二人とも日常の生活に留意することになった。特に僕の場合は晩酌が若い時からの習慣であったが、一時完全に禁酒(今は少量復活)し、老妻の協力で食生活を改善した。この結果、30年来の高血圧が正常に戻り薬を飲まずに済むようになった。今、振り返ってみると70歳前後に人間の身体に転機があるみたいだ。昔でいう厄年である。この時期に一度身体全体をオーバーホールする制度があってもよいのではないだろうか。

榎本武揚とインドネシア 函館戦争

2018-05-21 05:29:22 | 2012・1・1
函館出身の娘婿が母親の病気見舞いに出かけた土産に函館名物の「御勝手屋」羊羹(写真)を買ってきた。函館ではトラピスト.クッキーと並んで昔から有名である。円筒の容器に入っていて、底を下から押して取り出し備え付けの糸で切って食べる、昔ながらの羊羹だが、今回包装紙に明治3年創業と書いてあるのに目が引かれた。1970代、札幌の民放に勤務中、年に数回、函館へ出張していたが、函館の歴史については詳しいことは知らなかった。

僕が函館戦争に興味を持ち出したのは1994年、インドネシアのバンカ島沖のレパールという小島へ、榎本武揚らが乗った幕府の和蘭行御軍艦方の遭難の足跡を調べに行ったのがきっかけだ。一行は1962年(文久2年)、暴風雨にあって船が沈没、、レパール島の村長によって救出され、約1か月にわたって現在のインドネシアの地に滞在している。(1994年3月14日付け日本工業新聞所載)

榎本武揚が戊申の役で、海軍副総裁として幕府軍を率い、函館の五稜郭に立て籠り、新政府軍との間に戦闘したのは、1965年ー66年である。榎本が和蘭から帰国してから間もなくである。函館戦争には新選組、”彰義隊隊など旧幕府軍が大勢参加しているが、幕臣だった祖父は参加していない。当時、祖父は幕府の関東方代官をしていたが,勝海舟と同じ”恭順派”だったのだろう。

御勝手屋の羊羹は、函館戦争直後に松前で創業されている。南部藩から開拓に入っ元藩士が始めたそうだが、調べてみると、榎本武揚らはいったん全員逮捕されたが、明治5年釈放され、榎本はその後文部大臣,外務大臣など歴任、新政府によって重用されているが、一般の兵士たちは、その後どんな道を歩んだのだろうか。

韓国大統領府から締め出された朝日新聞 ”身内同士の仲間割れ”

2018-05-20 05:23:38 | 2012・1・1
産経新聞の19日付け首都圏版3面(総合面)に「韓国大統領府 朝日締め出し」という2段の囲み記事が載っていた。朝日新聞が18日付け紙面で”韓国政府が4月末に北朝鮮の核兵器や核物質を国外に搬出させる案を米国に提出している”と書いたことに対して”まったく事実でない”として、朝日新聞を無期限、大統領府立ち入り禁止処分にしたというのである。

産経新聞は例の慰安婦誤報問題をはじめ、最近お朝日の”モリカケ”報道について、批判的であり、一連の韓国報道についても独自のニュースが多い。朴槿恵前大統領のスキャンダル報道では、支局長が検察庁から在宅起訴されたことがある。結局、不起訴になったが、韓国では一般に”反韓”的な新聞といわれている。その意味で、この問題をどう扱うか注目していたが、冷静な報道だ。これに対してネットの批判が面白い。”仲間割れ””身内同士でなにやっているの””嘘つきVS嘘つき”etc.

6月の米朝会談を前にして、先の南北の「板門店宣言」当時のような融和ムードではなくなってきた。北朝鮮の国営メディアも批判的で核実験場廃棄視察も公開すると言いながらも、ここへきて韓国メディアは締め出すと言い出してきた。南北間に何か信頼を壊す原因がったのだろうか。朝日新聞は産経新聞の取材に対して”十分な取材に基づいて報道した”と答えている。僕もそう信じたい。韓国政府が外国のメディアを無期限に締め出したのは異例のことだ。よほど朝日の報道は韓国政府を怒らせるものがあったに違いない、

まだ捕まらない指名手配中の警部補 警察に弛みはないか

2018-05-19 06:05:18 | 2012・1・1
群馬県警の捜査一課の警部補、宮越大(37)が県内で発生した強盗事件に絡み写真入りで指名手配されてから半月以上経つがまだ行方がわからない。先日、姫路市向島で松山刑務所の受刑者が作業所から脱走したときには、延べ1万人もの警察官が動員され大騒ぎだったが、警部補の逃走はあまり話題になっていない。どこに潜伏しているのだろうか。

警部補の指名手配については、群馬県警の初動の遅れがあるという。組織内の身内のかばい合いなのだろうか、事件が発生してから相当経ってから指名手配している。その間に警部補は車で故郷の富山県方向に逃走したらしい。最近、警察内の不祥事が多すぎる。滋賀県警では交番内で19歳の少年警官を指導の逆恨みから拳銃で射殺した事件もあった。先日の新聞には、埼玉県警で、拳銃をかくしもったままの容疑者を、急病を訴えため市中の病院へ連れていっていた。

日本の警察は世界に冠たるものがる。だが、最近それに緩みが出てきた。昔では信じられない警察官の不祥事が多い、そのメンツにかけても群馬県警は身内の一員だった宮越警部補を探し出してほしい。あるいは宮越警部補が自首してもらいたいものだ。

" young man"の死と”Ohモーレツ”の時代

2018-05-18 05:44:36 | 2012・1・1
young man(Y.M.C.A)など元気いっぱい、派手な舞台アクションで一世を風靡した西城秀樹が急性心不全で亡くなった。まだ63歳という若さである。最近僕らより1まわり以上も若い有名人の訃報が多い。何故なのだろうか。僕が思うには、あの”Ohモーレツ”のCMで象徴される1970年代の”働き方”のツケが原因しているのではないだろうか。

先日は広島カープスの衣笠祥雄選手が71歳で早逝された。現役時代「鉄人」と言われ、連続出場記録の持ち主であった。猛将と言われた中日の星野仙一監督も同じ年で、現役時代は元気いっぱいの投法でファンを沸かせた。二人とも僕ら一般人から見れば、表現は悪いが”煮るても焼いても”の方であった。しかし、星野監督がいみじくも言っているように、その野球人生は”燃え尽きる”ものであった。

きしくも、この時代(1969年ー1980年)僕は、新聞社から民放に仕事が変わり、地方のテレビ局二つの開局に当たった。その関係もあって丸善石油の川口ローサのミニスカートが猛スピードの自動車の風でめくれるあの”Ohモーレツ”CMは忘れられない。時代の働き方が”モーレツ”を要求していたこともあった。単身赴任の不節制もあって僕はこの時代、二度も入院している。

当時勤務していた札幌の局では僕より若いアナウンサーが二人も早逝している。今から考えると、”モーレツ”の時代、社会全体の働き方に無理があったのかもしれない。西城秀樹のあの元気いっぱい踊りまくる姿と、あの”モーレツ”の時代とがオーバーラップされ、いとおしさが感じられる。

”やれやれ” ”やっぱり”の北朝鮮のドタキャン戦術

2018-05-17 05:21:05 | 2012・1・1
北朝鮮が昨日16日、予定されていた南北(朝鮮)の首脳会議を突如、中止を申し入れてきた。理由は韓国が米国との間の合同航空訓練を実施することにあるようだ。北朝鮮は”(合同訓練は)「われわれの)善意に対する挑発だ”とし”(米国は)会議の運命を熟慮しなければならない”と言い出した。先の文在寅と金正恩のトップ会談は何を話あったのか。”やれやれ”であり、”やっぱり”である。

南北両首脳の「板門店宣言」で、朝鮮半島の非核化が進み、融和によって一挙に南北統一へというムードが出てきて、文在寅大統領の支持率が上がり、トランプ大統領とならんでノーベル平和賞候補とまで言われた。世界中の世論も米朝首脳会談へ大きな期待を寄せていた。僕も半信半疑ながらも希望を寄せていたのだが。 

16日付け「産経新聞」首都圏版9面国際面のコラム「ソウルにて」(名村隆寛特派員)の記事が、現地の情勢を的確につかんでいる、この記事は「北」のドタキャン発表の前に書かれたものだが、引用させて頂く。「韓国では今すぐ南北の統一を望む声は意見は多くない。諸般の事情があるのだろうが、南北首脳会談はいつか訪れる統一への現実味を伝えた。ただ、韓国社会では、それを受け入れるだけの心の準備や余裕は感じることはない」

北朝鮮の社会も同じか、それ以上であろう。つい半年までは核実験をしミサイルを飛ばして、米国をののしっていた国が、五輪を機会に宥和ムードに転じ、敵にしていたトランプと会おうといっても庶民はとまどうに違いない。非核化、ミサイル放棄の大きな波はもとより歓迎だが、当事国にとっては統一となると大変なことなのだ。時間をかけたほうが良い。

東條英機 山本五十六 石橋湛山そして父の生誕134年

2018-05-16 05:02:14 | 2012・1・1
亡父は明治17年(1884年)5月16日生まれ、今日が生誕134年である、今年は明治維新から150年という節目から明治時代が改めて見直され関心が集まっている。僕ら世代は”明治は遠くなりにけり”の昭和の生まれだが「明治節」(明治天皇誕生日)を学校で祝い、戦後生まれの世代より、明治が近く感じられるのではないか。

NHKラジオ第二放送で毎週月曜日夜8時半から”声でつづるアーカイブ”という番組があるが、たまたま、その第一回(3月19日)「東條英機、山本五十六、石橋湛山、明治19年生まれ」を聞いた。三人とも亡父と同じ年生まれなのに驚き、親しみをもった。東條英機は大東亜戦争勃発時の総理大臣、山本五十六は連合艦隊総司令官で元帥、石橋湛山も戦後だが、総理をつとめた著名なジャーナリストである。

改めてご三方と亡父の生きていた時代を振り返ってみた。10歳の少年期に日清戦争の勝利を体験、満20歳が徴兵年齢期であった。山本五十六は海軍兵学校を卒業、士官候補生として日本海海戦に従軍しているが、東條英機は陸軍士官学校生徒であった。石橋湛山は早稲田大学予科の学生、父も同じ大学の専門部の学生で兵役にはついていない。亡父の遺品の中に、東京本郷区役所からの明39年2月発行の徴兵身体検査出願の書類があるが、父が大学を卒業したのは前年10月である、この時代には大学生は徴兵延期制度があったようだ、石橋は明治40年に卒業後入隊、少尉に任官している。^

この世代は大正時代に第一次世界大戦(1914年ー18年)を経験、そのあと昭和初めの経済恐慌、軍縮の波に洗われ、そのあと満州事変から始まるいわゆる”15年戦争”の指導者となる。日本の近代史上、最も波乱にみちた時代を生きてきた世代であった。

100年前、ウェルーズ沖で沈没した平野丸の慰霊碑

2018-05-15 04:59:04 | 2012・1・1
先の戦争後、海外各地に建てらえた慰霊碑を巡拝されている知人から第一次世界大戦末期(1918年)英国のウェルーズ沖で、ドイツ海軍の潜水艦(Uボート)の攻撃を受けて沈没した日本郵船の貨客船、平野丸の犠牲者、210人を祀る、現地人によって建てられた慰霊碑が、今年100年に当たり再建されるという宮崎日日新聞の記事(共同通信)をメールで送って頂いた。

初めて聞く話である。ウェールズというと、僕ら昭和一ケタ世代は、大東亜戦争勃発時の昭和16年12月10日、マレー沖で、日本海軍航空隊の爆撃、雷撃を受けて瞬時にして沈没した大英帝国東洋艦隊の旗艦、プリンス.オブ.ウェルーズ号を想い出す。当時小学生だった僕は学校から映画館に連れられて映画「ハワイ. マレ沖海戦」を見に行き、その勝利の場面に拍手を送り胸を躍らせた。

第一次世界戦争について、僕らの世代はほとんど学校で教わっていない。わが国は日英同盟の関係でドイツを敵にする連合軍だったが、戦闘行為は青島(チンタオ)やドイツ領南洋群島に限られていた。しかし、今回、平野丸の慰霊碑を機会に調べてみたら、欧州航路で33隻の日本の商戦がドイツ軍の攻撃で犠牲になり、その慰霊碑が鶴見(横浜)の総持寺の境内にあることを知った。^

ウェルーズの現地では平野丸沈没100年に当たる今年10月、朽ちかけた慰霊碑を再建し、新しい碑の除幕式が行われる。日本では厚労省が保存維持のできない民間の慰霊碑について処分する事業が展開されている。いつから日本人は慰霊の心を失ってきたのだろうか。プリンス.オブ.ウェルーズの船体はマレー沖海底に沈んだまま。現地に慰霊碑があるかどうかは寡聞にして知らない。




米朝首脳会談前の「北」のおかしな対日論評

2018-05-14 05:13:58 | 2012・1・1
北朝鮮の国営メディアが6月のトランプ.金正恩米朝首脳会談を前にして、おかしな対日論評を始めている。先日の労働党機関紙が”1億年たっても神聖な地(朝鮮)に(日本)の足は踏み入れさせない”言ったかと思えば、今度は朝鮮中央通信が”安倍政権はすべて解決済みの拉致問題を持ち出し騒ぎ、朝鮮半島の平和への動きを拒もうとしている”と馬鹿げた論評をしている。一方、そうかと思えば、拉致問題について、金正恩が日本はなぜ直接、自分のところへ言ってこないのかと語ったという報道もある。

この一連の動きはおそらく、これまで米国と韓国に対して向けられていた批判のこぶしの下げどころがなくなったため、一つに日本に向けられてきたのだろう。よい迷惑だ。わが国が北朝鮮ㇸ侵略しようと本当に思っているのであろうか。過去においても侵略したことはない。30年間の朝鮮半島統治㋨補償については、1965年の日韓基本条約締結で、朝鮮半島における唯一の合法政府(韓国)との間で解決済みである。わが国は朝鮮戦争当時、まだ国連に加盟しておらず、国連軍にも参加していない。北朝鮮は過去の日本の植民地支配の賠償を求めているようだが、拉致問題の解決が先決である。

日韓基本条約の締結には15年の月日を要している。朝鮮半島の唯一の合法政府、韓国は条約によって8億ドル(当時の韓国国家予算の2.3倍)の援助を日本から受け、いわゆる漢江の奇跡といわれる高度経済成長を成し遂げた。北朝鮮も年内に朝鮮戦争関係国との間で停戦条約を締結し、国際社会に復帰し、そのあと、わが国との間で国交を結びたいに違いない。そのためには拉致問題の解決である。