★ 昨日はゲーテの詩によるモーツァルト作曲、歌曲「すみれ」でしたが、今日はゲーテの盟友でありライヴァルでもあったシラーの詩、ベートーヴェン「第九」の合唱です。
この演奏は第二次世界大戦頃の録音、フルトヴェングラーの境地やいかに。
いいわけもせず、国外に逃げることもなしに、戦後も一切言い訳をせず純粋に祖国「ドイツ」の音楽を愛した。
また、ユダヤ系の楽団員をそっと海外に逃がしたりしながら、ナチス政権の時も、「ドイツ音楽」のために祖国を動かず、その演奏はお聴きのように壮絶なものです。
動画のコメント欄にこんな文があり、読んで感動しました。
これほど緊張感のある、入り方をする第九を、聞いたことがない。戦争の世紀と言われた20世紀の、まさに真っ只中にあった この時、私は戦争の苦悩 人類の受けた苦しみを、不屈の精神で乗り越え 歓喜にいたろうではないか!という 偉大な指揮者のメッセージと、とらえたい。
ところで「歓喜」とありますが、シラーは「歓喜」ではなく、フライハイト、「自由」と書いていたのです。
ベートーヴェンが「歓喜」としたのは、検閲の問題と、自分自身が音楽家として致命的といえる
「難聴」のこと、初演の時、ベートーヴェンは聴衆の拍手が聴こえず、たまりかねた歌手が彼を聴衆の方に向かせると、感激した人々の様子を「眼」で見た、という悲劇。
それをロマンロランは「キリストさえ、十字架にかけられるときは嘆いた。なのに我々凡人が
嘆く日常をなぜ責められようか」と書いています。
こんな強烈な演奏空前絶後、音楽の魂、完全燃焼、です。
まさにDurch Leiden zu Freude 、苦悩を通って歓喜へ、でしょうか。
ロマンロランは「この作曲家の勝利がどんな勝利に勝ろうか、ナポレオンの勝利よりも」と言っています。
「不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間が自ら歓喜を造り出す」この言葉はロマンロランがベートーヴェンのことを書いたものですが、私は同時にフルトヴェングラーが一切、言い訳をしない、音楽でのみ表現した「至高の指揮者」だったことを思います。
フルトヴェングラー 《歓喜の歌》 1942
★ 戦後まもなくフルトヴェングラーは音楽界から冷たい対応を受けましたが、親しく救いの手をさしのべたのは、ライヴァルの
トスカニーニでした。そして戦後すぐの公演は、なんと同じ敗戦国のイタリア、ミラノスカラでワーグナー。
最近、その時のRAI(イタリアの放送局)のインタビューを聴いたのですが、なんと明るくユーモアいっぱいの方で、丁寧でドイツなまりのイタリア語をゆっくり話しながら答えていました。思い描いていた古風で謹直なイメージとは全く違って明朗な感じがしました。
★ 他にヴェルディのオペラ『ドン・カルロ』もシラーの劇がもとになっていますが、真実をもとめ、その時代の理想や、やむにやまれぬ政治上の権力争い、スペイン皇帝をも超えるローマカトリックの権威、そして新教封じ込め、などなど、壮大な史劇です。
このブログにも何度かご紹介しましたが、また次の機会にもその名場面について書いてみたいと思います。