趙高、乱を為さんと欲す
八月己亥きがいの日、趙高は悪化する形勢が皇帝に露見してしまうことを恐れ、謀反を起こそうと考えた。
群臣が自分に従うか心配した趙高は、一計を案じ、鹿を引いて二世皇帝に献じて言った。
馬です、と。
皇帝は笑って言った。
丞相は何を言っているのだ。
鹿を指して馬と為している、と。
そして左右に尋ねた。
ある者は黙して答えず、ある者は同調して馬といい、趙高を恐れて曲従した。
中には鹿と答えた者も居たが、趙高はこれを法に引っかけて罪に陥れた。
これより後、群臣の誰もが趙高に恐怖した。
出典・参考・引用司馬遷著,塚本哲三編「史記」第1巻146-147/297
ブログのティールーム
ショパン「マズルカ」ピアノは巨匠ホロヴィッツ
Horowitz plays Chopin Mazurka
大変古い録音ですが、貴重な演奏です。
・・・私はまだ須賀しのぶ女史の本「また、桜の国で」を読んだ余韻が残っています・・・
第二次世界大戦中、ポーランドの人たちは日本がナチスとは違うことを知っていました。
「シベリアに住む10万ものポーランド人の多くは、ロシアの支配時代に祖国の独立を取り戻すべく蜂起し、シベリア送りとなった愛国者の子孫なんだよ」・・・大正9年から768人のシベリア孤児たちが日本に保護され、帰国してから「極東青年会」を結成し恩義ある日本と祖国の交流を深めることに務めた。
私の2月1日のブログにも書いています。「愛国心は言葉の濫用ではない」のエントリです。
http://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/e/85106446b2a634eb7b33736cb6c1a2d9
アマゾンのレビューから
1938年10月、青年外交官・棚倉慎がワルシャワの日本大使館に着任するところから物語は始まる。彼はロシア人の父を持ち、幼年時に日本に来たポーランド人孤児と交流があった。
ナチスがポーランドを狙って牙を研ぎ始まると、慎は孤児たちがつくった青年組織と協力して戦争回避のために奔走する。しかし、ナチスの侵略を止められずワルシャワは武力制圧されてしまう。イスタンブールに転地していた慎は志願してワルシャワに戻り、ポーランド青年たちの抵抗運動を支援する。ソ連軍の接近を機に抵抗組織が蜂起したが、ナチスの強力な軍事力によって劣勢に追い込まれていく。
物語の舞台は1938年から1944年のワルシャワである。したがって、ナチス・ドイツの侵攻、続くソ連の侵攻、ナチスの統治、ユダヤ人迫害、ゲットー蜂起、カチンの森、ワルシャワ蜂起、すべて同時進行で状況が詳細に記述される。日本人外交官の慎は、ポーランドの受難のガイド役となって、これまで連合国側の視点でのみ語られてきた状況をポーランド側から描写する。ポーランド人の自由への渇望や、人間の尊厳を賭けた戦いへの作者の深い敬意と共感が行間に滲んでいる。