ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

「父」とは何か ~子供に対してルールを「強制」する人間のこと、だが必ず「包容力が必要」/ 古典に通じる真の芸術とは                              

2021年05月26日 | 政治

 矢崎彰容氏のエッセイから(抜粋)・・・9年前の「正論」の記事より
                           
子供はスパルタへの恐怖心から、何がメッセージとして、ルールとして言われているのかわからず、パニックを起こしてしまう。
相手が、つまりは父が何かを「怒っている」ことは分かるが、何をすべきなのかを理解できない。怒りだけが伝わる。それでは恐怖しか伝達しない。一方の父もまた、怒る自分が最終的には何をめざして怒っているのか、わからなくなる。
こうして家庭においてもまた荒みきったことばが、怒号として、泣き叫ぶ子供の声として2012年の日本の家庭に現れているのではないか。

私が言いたい最終的な結論は次のようなことなのだ。

この父は「父」ではない。「父」とは、子供にたいしてルールを「強制」する人間のことである。だが、その「父」には、かならず包容力がなくてはならない。子供にルールの大事さを教え、時には厳しいことばをかけつつも、一方で、子供が社会で転びそうな場合には、そっと後ろに手をまわし気づかれぬように支える度量がなくてはならない。かならずそこには一種の「余裕」が必要なのだ。

子供から大人になることは、大きな川を必死に泳ぎながら高い堰を飛び越えるような困難な作業だ。
子供にとって、それは大きな賭けである。大人はそれを見守り、本流から外れそうになる魚たちにそっと手を差し伸べ、支流からもとの流れにもどす。
だが流れに逆らい泳ぎつづけること自体を、可哀そうだと止めることはない。それは過保護だからだ。
このような姿こそ「父」ではないか。


実はこの国には、本当の意味での「父」がいない。「父」がいなければ札つきの悪はチャンピオンになり、家庭をもつことができない。父親からの罵声は、国民という子供たちをさらに動揺・興奮させるだけではないのか。何を破壊すればいいのか、何を怒られているのか、私たちは本当のところ、分かっていないではないか――この比喩が、比喩ですまされないことを、私はことばの荒廃というささやかな、しかしまことに重要な部分に見いだしてきた。

そして最後に述べておこう。
「余裕」ある父性を帯びた人物を選ぶこと、これこそが今回の選挙で求められる私たちの判断基準なのだ。
(以上)
ブログ主が勝手に付け加える・・・女性の場合は・・・歴史に学ぼうか・・・それともこれからか?



 古典に通じる真の芸術とは・・・奥山篤信氏の評による中国映画「無極」について

・・・真田などがこの映画に出演していると聞いて、、また中国に金の為なら節操も売る日本の俳優かと決めつけていたが、この映画にはひとかけらも反日性も共産主義のドグマもない、・・・嘘で塗り固めた現在の中国共産党政府とは別世界で、この物語には詩があり、道徳性もある。このような監督が、言論統制の中国に居ながらこういう映画を作れるのは・・・中国の題名は「無極」果てしないこと。そこには唯物史観などかけらもない。・・・男の役割、男らしさなどふんだんに描かれており、しかも信仰心溢れる輪廻の思想がこの映画にあるのが嬉しい。この監督、古典に通じているのか・・・この映画を見て、あの拝金主義の権化といえる現在の中国からこのような作品が・・・願わくは監督が現在、中国共産党政府の唯物論を批判、精神や情緒の問題を提起したものと解釈したい。

文化面で先入観、食わず嫌いはつくづく禁物であり、・・・小津や黒澤らの日本映画の伝統は、悲しむべきかあの駄作「スパイゾルゲ」の篠田や「男たちの大和」の佐藤など、貧弱な発想とマンネリ、今や日本の監督、脚本家がいかに世界的レヴェルに達していないか、目の当たりに感じた次第だ。
(以上、奥山篤信氏の著作「超★映画評 愛と暴力の行方」より)

真田広之 Hiroyuki Sanada 中国映画『無極(プロミス)』 中国大陸版予告




ブログ主より・・・私は今の中国共産党のナチスをも超えるルールなき暴政に怒る人のひとりである。
しかし、芸術は別だ。私が「史記」「三国志」「水滸伝」「岳飛」、そしてこよなく「漢詩」を愛し、そして京劇の美しい剣舞も実際に北京で見て今も忘れられない気品ある名舞台を想う。
これらは今の中国共産党が排斥してきた芸術であり、芸術家が必死にその伝統を護り、文化大革命吹き荒れる中で、民衆もそれを秘かに支持してきたからこそ残ったものである。
それに今は拓本しかないが
王義之の書のキリっとした筆、また「唐」の皇帝に仕え、200回以上も危険を承知で皇帝を説得した魏徴「人生意気に感ず」の知と胆力、その他、それらの作品の中には今でもうっとりしてしまう魅力があるが、なかなか今は言いにくい、誤解されるような状況もあるので、あまり書かなくなった。

しかし芸術において一切の妥協がないことで「無敵」の奥山篤信氏の「超★映画評 愛と暴力の行方」に書かれているチェン・カイコー監督の「Promise」(無極)を読んでその毅然たる評に「政治的なこだわりや世間の物差し」は真の芸術の前には使わない自由自在の判断を新鮮な風がさわやかにヒューと通りぬける印象を強く受けた。それにやはりそれを支えるだけの知識と感性の豊富なことで地球的な文化規模でその基盤を支えておられることが文中にいつもながら見え隠れする。決して大袈裟ではなくにっこりと笑って指し示すような自然さで。
See the source image

趙雲子龍(全身是胆)・・・三国志より

番外編

 今に伝わる大切な名言

「一頭のライオンに率いられた100匹の羊の群れは、一匹の羊に率いられた100匹のライオンの群れに勝る」

「ゴールを征服したのはシーザーに率いられたローマ人であり、単なるローマ人ではない」


ブログのティールーム

本日はリパッティが弾くシューベルト「即興曲」をどうぞ。
Dinu Lipatti plays Schubert Impromptu in G-Flat Major (with preluding)




コメント (2)
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奥山篤信氏の映画評「ノマドランド、」~現代の遊牧民ノマド、東洋思想とキリスト教を交錯させた永遠の世界

2021年05月26日 | 政治

★ 「ノマド」とは、遊牧民や放浪者を示す言葉で、日本ではほとんど聞かないが、大陸ではヨーロッパやアジアを問わず、いろんな生活形態で長年暮らしてきた、また現代はそれが「インターネットの発達によりクリエイター階級がいろんな場所で時間的制約にも捉われない、過去の「ノマド」を彷彿とさせる暮らしが到来している、・・・この映画の場合はその「恩恵」には縁の薄い人たちの生活、そしてそれを表面ではなく深い考察で奥山氏がお書きになっているということです。

NOMADLAND | Official Trailer | Searchlight Pictures



奥山篤信氏の映画評
アメリカ映画『ノマドランド』

原題『Nomadland』2020

~現代の遊牧民ノマッド、その生き様は、あの西部開拓時代にアメリカに入植し、新天地を探して旅をした移民のスピリットとの類似があるのだ。~

コロナ禍でアカデミー賞候補作品を観ることが難しかった。いくつか観た中から僕なりの判断で、この映画は好き嫌いは別としていけるなと直感した。特に主演のフランシス・マクドーマンドの天才的な演技力によるところが大であり、これは3度目の主演女優賞でもおかしくないと確信した。

 見事3度目の主演女優賞に輝いたフランシス・マクドーマンドは、シカゴ出身でカナダ人聖職者夫婦の養女となり、ピッツバーグで育った。

ベサニー・カレッジで演劇の学位、イェール大学で美術学修士号を取得。卒業後、舞台女優として活動を始め、1984年にコーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』で映画デビューした。この作品が縁でジョエル・コーエンと結婚し、彼女が初めてアカデミー主演女優賞を獲った『ファーゴ』(96年)など、コーエン兄弟の作品には欠かせない存在となる。

 若き頃のコーエン監督の映画での怪しげな官能的演技もさることながら、まさに老いた女性の、人生の何か真実を迷うことなく一目散に追求し、周りにいる人間に対する暖かい社会的正義や調和など、さりげないなかに説得力ある生き様を演技させたら、まさにこれほどリアルで迫真の演技ができる女優はそうはいない。僕は彼女のファンの一人だ。

 今回取り上げる『ノマドランド』は、現代アメリカの車上生活者たちの生き様を描いている。ジェシカ・ブルーダーが2017年に発表したノンフィクション『ノマド:漂流する高齢労働者たち』が原作だ。

 監督のクロエ・ジャオは、北京生まれでアメリカの映画学校を卒業し、現在アメリカで活躍している。
第93回のアカデミー賞(2021年)では作品賞と監督賞を受賞したので、主演女優賞と合わせ、最も重要なオスカー三冠をものにしたのだ。

 ジャオ監督は白人以外の女性として初めて監督賞を手にした。ちなみに女性が監督賞を獲得したのは、キャスリン・ビグロー監督が2009年に『ハート・ロッカー』で初めて受賞して以来11年ぶりとなる。

 また本作は、第77回ヴェネツィア国際映画祭(2020年)でも最高賞である金獅子賞を受賞している。

 この映画は唯物主義で共産主義体制というまさに、非人間的社会で育った中国人にしては大自然への畏敬や輪廻的思想があり、美しいアメリカの自然の画像もいれながら、主演のフランシスと協調しながらその演技のうまさと自然さを、監督できたと読み取れる演出をしたと思われる作品だ。アメリカも日本も、そして共産主義を含む世界が、金金金かつ物質欲、生活向上(大衆蔑視としかいえないスローガン〈生活第一〉の政治)、大衆迎合経済政治に振り回されている。

 そんな中でこの映画は物質主義ではない、というよりはその恩恵に乗ることができなかったいわば社会的敗残者の人間たちの社会だからこそ生まれる人間らしさ、思いやりや愛を、輪廻的に描いて秀逸だ。

 アメリカの僻地の工場の閉鎖で街自体も地図から消えたエンパイアなる街に住む主人公の夫は、ゴーストタウンになっても、その土地を愛するからこそ、そこから離れずそこでガンで亡くなった。妻は、そんな街で最後まで、夫を見届けた。その彼女が自己の孤独感を満たす意味からも、社会の貧困のいわゆるホームレスの集団に積極的に参加して共に励まし生きる意欲をシェアするという現代のノマド族になっていく。

 神は汝を無尽蔵に愛した。だからそれに応えるために、同じように汝は神を愛しそして他人を愛せよ、というキリスト教の愛。ここに中国人の東洋的な輪廻の世界が加わり、さらに宇宙という気の遠くなる光年のサイエンスの世界の中で東洋思想とキリスト教を交錯させたとの印象を持つのも自由だ。人間はその短い世界のなかで自己の人生をまとめあげる。そして死という避けられない必然のなかでその素晴らしい思い出は霊として永遠に生きるのだ。そんな美しい世界を、凡庸で平凡だが、他者への愛や友情で描く、そんな役柄をフランシスは見事に演じるのだ。(以上、奥山篤信氏)

Okuyama  Atsunobuさんを含め2人の画像のようです
ブログ主より・・・遊牧民生活、再びこのような時代が形は変えても来ているようなところを感じています。これは古くて新しい展開と思います。
大衆迎合主義に毒された左右ともに行き詰った現代に問いかけ、歴史を通じて洋の東西にこのことが見逃せない事実であることをこの評を通じて感じます。
特に左のページの3段目にお書きになったこと、東洋と西洋の接点がこうして美しく評された言葉に感動します。
「東洋的な輪廻の世界観」が映画のセリフなどで出てくるものではなく、東洋の思想(これは私たち日本人が知らず知らずの間に生活の中で感じ取ってきているものが、西洋的なものとの出会いとその先の「交錯された印象」を受けられたのは、音楽で言えば美しい旋律の中に組み込まれる「通奏低音」のごとく見え隠れしながら効果的に言葉短い中に組み込まれた真実を見抜いておられる、これは芸術が伝えているものだ、と感じました。
私は芸術を「教育的なお説教」と捉えない、「感性」として警告であり縦にも横にも左右にも伝わっていくものと思っていて、実に緻密なことも見事な刺繍のように表裏を縫いながら伝わる如くに思いました。
奥山氏の著作で「Vフォー・ヴェンデッタ」の中に【政治家は真実で嘘を語る。小説家は嘘で真実を語る】という一節があったが、この映画は牧歌的な風景などを観ながら、なおそれを感じさせるようでふと思い出した次第です。
この「ノマドランド」はヴェンデッタ(イタリア語で「復讐」)なき、諦念と捉えながらも日々の日常で、さらに前進せねば生きていけない真実の情景を思わせます。


ブログのティールーム

ブラームス「ハンガリア舞曲」第一番 指揮はラトル。ベルリンフィルハーモニー
Simon Rattle, Berliner Philharmoniker – Brahms: Hungarian Dance No. 1 in G Minor, WoO 1




ショスタコーヴィチ作曲 「セカンドワルツ」~画面はヴィスコンティの映画「山猫」から・・・19世紀イタリア統一運動が起こり、ガリバルディ将軍はシチリア上陸、それまでにシチリアを占領していたフランスのブルボン王朝は撤退、激動のイタリアは・・・
Dmitri Shostakovich - The Second Waltz






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