★ 矢崎彰容氏のエッセイから(抜粋)・・・9年前の「正論」の記事より
子供はスパルタへの恐怖心から、何がメッセージとして、ルールとして言われているのかわからず、パニックを起こしてしまう。
相手が、つまりは父が何かを「怒っている」ことは分かるが、何をすべきなのかを理解できない。怒りだけが伝わる。それでは恐怖しか伝達しない。一方の父もまた、怒る自分が最終的には何をめざして怒っているのか、わからなくなる。
こうして家庭においてもまた荒みきったことばが、怒号として、泣き叫ぶ子供の声として2012年の日本の家庭に現れているのではないか。
私が言いたい最終的な結論は次のようなことなのだ。
この父は「父」ではない。「父」とは、子供にたいしてルールを「強制」する人間のことである。だが、その「父」には、かならず包容力がなくてはならない。子供にルールの大事さを教え、時には厳しいことばをかけつつも、一方で、子供が社会で転びそうな場合には、そっと後ろに手をまわし気づかれぬように支える度量がなくてはならない。かならずそこには一種の「余裕」が必要なのだ。
子供から大人になることは、大きな川を必死に泳ぎながら高い堰を飛び越えるような困難な作業だ。
子供にとって、それは大きな賭けである。大人はそれを見守り、本流から外れそうになる魚たちにそっと手を差し伸べ、支流からもとの流れにもどす。
だが流れに逆らい泳ぎつづけること自体を、可哀そうだと止めることはない。それは過保護だからだ。
このような姿こそ「父」ではないか。
実はこの国には、本当の意味での「父」がいない。「父」がいなければ札つきの悪はチャンピオンになり、家庭をもつことができない。父親からの罵声は、国民という子供たちをさらに動揺・興奮させるだけではないのか。何を破壊すればいいのか、何を怒られているのか、私たちは本当のところ、分かっていないではないか――この比喩が、比喩ですまされないことを、私はことばの荒廃というささやかな、しかしまことに重要な部分に見いだしてきた。
そして最後に述べておこう。
「余裕」ある父性を帯びた人物を選ぶこと、これこそが今回の選挙で求められる私たちの判断基準なのだ。
(以上)
ブログ主が勝手に付け加える・・・女性の場合は・・・歴史に学ぼうか・・・それともこれからか?
★ 古典に通じる真の芸術とは・・・奥山篤信氏の評による中国映画「無極」について
・・・真田などがこの映画に出演していると聞いて、、また中国に金の為なら節操も売る日本の俳優かと決めつけていたが、この映画にはひとかけらも反日性も共産主義のドグマもない、・・・嘘で塗り固めた現在の中国共産党政府とは別世界で、この物語には詩があり、道徳性もある。このような監督が、言論統制の中国に居ながらこういう映画を作れるのは・・・中国の題名は「無極」果てしないこと。そこには唯物史観などかけらもない。・・・男の役割、男らしさなどふんだんに描かれており、しかも信仰心溢れる輪廻の思想がこの映画にあるのが嬉しい。この監督、古典に通じているのか・・・この映画を見て、あの拝金主義の権化といえる現在の中国からこのような作品が・・・願わくは監督が現在、中国共産党政府の唯物論を批判、精神や情緒の問題を提起したものと解釈したい。
文化面で先入観、食わず嫌いはつくづく禁物であり、・・・小津や黒澤らの日本映画の伝統は、悲しむべきかあの駄作「スパイゾルゲ」の篠田や「男たちの大和」の佐藤など、貧弱な発想とマンネリ、今や日本の監督、脚本家がいかに世界的レヴェルに達していないか、目の当たりに感じた次第だ。
(以上、奥山篤信氏の著作「超★映画評 愛と暴力の行方」より)
真田広之 Hiroyuki Sanada 中国映画『無極(プロミス)』 中国大陸版予告
ブログ主より・・・私は今の中国共産党のナチスをも超えるルールなき暴政に怒る人のひとりである。
しかし、芸術は別だ。私が「史記」「三国志」「水滸伝」「岳飛」、そしてこよなく「漢詩」を愛し、そして京劇の美しい剣舞も実際に北京で見て今も忘れられない気品ある名舞台を想う。
これらは今の中国共産党が排斥してきた芸術であり、芸術家が必死にその伝統を護り、文化大革命吹き荒れる中で、民衆もそれを秘かに支持してきたからこそ残ったものである。
それに今は拓本しかないが王義之の書のキリっとした筆、また「唐」の皇帝に仕え、200回以上も危険を承知で皇帝を説得した魏徴「人生意気に感ず」の知と胆力、その他、それらの作品の中には今でもうっとりしてしまう魅力があるが、なかなか今は言いにくい、誤解されるような状況もあるので、あまり書かなくなった。
しかし芸術において一切の妥協がないことで「無敵」の奥山篤信氏の「超★映画評 愛と暴力の行方」に書かれているチェン・カイコー監督の「Promise」(無極)を読んでその毅然たる評に「政治的なこだわりや世間の物差し」は真の芸術の前には使わない自由自在の判断を新鮮な風がさわやかにヒューと通りぬける印象を強く受けた。それにやはりそれを支えるだけの知識と感性の豊富なことで地球的な文化規模でその基盤を支えておられることが文中にいつもながら見え隠れする。決して大袈裟ではなくにっこりと笑って指し示すような自然さで。
趙雲子龍(全身是胆)・・・三国志より
番外編
★ 今に伝わる大切な名言
「一頭のライオンに率いられた100匹の羊の群れは、一匹の羊に率いられた100匹のライオンの群れに勝る」
「ゴールを征服したのはシーザーに率いられたローマ人であり、単なるローマ人ではない」
ブログのティールーム
本日はリパッティが弾くシューベルト「即興曲」をどうぞ。
Dinu Lipatti plays Schubert Impromptu in G-Flat Major (with preluding)