『月刊日本』12月号に掲載されている奥山篤信氏の映画評の「最後の決闘裁判」は、以前このブログでご紹介したことがある。
あの時、私はヴァーグナーの「ローエングリン」におけるブラバントの公女エルザのかわりに騎士ローエングリンがエルザの罪を訴える武人テルラムントとの決闘のことを書いた。しかもその変な決闘は「勝者が正しい」とするもので、誰も異論はなく、英明だった実在の国王ハインリヒが迷わず許可し立ち会うという。現代の私たちはこの「ローエングリン」の始まりからして「どこかおとぎの国の物語」と思い込み、まさかそれが14世紀末まで実施されていたとは思わなかった。
「神は正しいものに味方する」「決闘の結果は神の判断」というキリスト教の教えがあったので、続いた。
ここで奥山氏は「現代の性犯罪・ハラスメント」のことを書いて結論は読者にゆだねているように思う。
この問題は難しい。真相は藪の中、とも言われることもあり、場合によっては袋叩きにあう。
なんともはや「真実追及」が「これしかない」という一本道になる危険もあるのだ。だいたい、「ローエングリン」からしてこれは土着のヴォータン信仰と新しく伝来したキリスト教との根の深いいろんな要素を含んだものであり、名君ハインリッヒですら圧倒的な権威を持ちながら戸惑うのだ。
奥山氏は「現代の羅生門」を思ったのではないか、と映画の作者の心境を推しはかっておられるのか、「すべて闇の中」の玉虫色となるような現代に通じる曖昧さが「差別主義者」と決めつけられることの「曖昧な決闘裁判」を思わせるようだ。
その中で最近購入したベートーヴェンの唯一のオペラ「フィデリオ」のDVDでバーンスタインが指揮したヤノヴィッツ主演の名演奏を視聴して、すぐその「曖昧な」「闇の中」を許さないベートーヴェンの芸術を今の世に思った。
政治犯として投獄されたフロレスタンは地下牢に捕われている。そしてピッツァロという悪徳役人はフロレスタンを殺して口を封じようとするが、男装して「フィデリオ」という名で乗り込んだフロレスタンの妻、レオノーレによって救われる。夫が殺されかかった時「妻の私も殺せ!」と銃口を向けるのだ。
無実の囚人たちは無事に解放され、フロレスタン夫妻は正義と自由を人々の合唱で歌う。妻レオノーレが悪人ピッツアロを退けた時に、指揮者バーンスタインは本来「フィデリオ」にはない別の「レオノーレ3番」を入れ、その後、民衆の勝利の大合唱を入れるのだ。
この効果的なこと、天才バーンスタインは躊躇なく「レオノーレ3番」をくっつけたのだ。
なんという感動が生まれたことだろう。
奥山篤信氏の最新本『エモーショナルな東京五輪観戦記』はそうした「国の威信をかけたスポーツの決闘裁判」を分厚い雲を吹き飛ばすような、圧倒的な筆致で筆を進めていき、私自身が今まで「国家の名誉」の為に五輪を捉えていたことも、「フィデリオ」の如くだんだんと曇りガラスを拭き取るように美しい景色が見えてきた。
ヴァーグナーも騎士ローエングリンの勝利を最後に勝利でなくし、ローエングリンはエルザの善意の裏切りによって去る。ここが天才の凄みだ。最後の最後まで「安易ではない」のだ。
ベートーヴェンは一貫して「苦しみから歓喜へ」であり一歩も譲らない。そして作家の奥山篤信氏も幅広い知識と本来の直感にて、宗教やスポーツなど、ヴァーグナーの曖昧さまで(その曖昧さもヴァーグナーにとっては回りくどいまでの真実」であるが)、視界を広げ、そして奥山氏の「思想信条」にかかわらない広々とした視界は独特の強みが感じられる。
篠原常一郎氏、本音で語る皇室の危機
走り書きは今回、書きません。実際にお聴きいただくほうがいいと思ったからです。
ホシュ系の中でも篠原氏を「元共産党員のくせに」「反日勢力の思う壺、皇室を潰す」とレッテル貼りをする有名人がチラホラいる。
今回、ホシュ系の言論人は何もせず篠原叩きに回っている。あいかわらずだなあ・・・と思う。
そういう人たちはいつものように群れをなし言論弾圧に膝を屈するだけで、勇気ある言動の篠原氏を「元共産党員が~」と責める。何が「保守」なものか!!
私は全部この動画を視聴しましたが、お時間のない方はせめて25分からでもお聴きください。
西尾幹二氏もきちんと批判されている。
篠原氏は歯に衣をきせず、ハッキリ仰っています。
【KK問題】A宮家 皇位継承 篠原常一郎氏
★ 評判の「ワンちゃん動画」
小室眞子さん小室圭さん仕事もせず勉強もせず弁護士諦め税金使ってロイヤル生活三昧満喫中と現地メディアに報じられる【カッパえんちょー】
ブログのティールーム
本日はベートーヴェン作曲「フィデリオ」フィナーレをバーンスタインの指揮でお聴きください。
Beethoven - Fidelio: O Gott! Welch ein Augenblick! - Bernstein (1978)