『終わりよければすべてよし』とあわせて10月に舞台を見る予定のシェイクスピア『尺には尺を』の松岡和子訳を駆け足で読んでみた。
先日、『終わりよければすべてよし』の巻末の前沢浩子氏の「解説」で、「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」はともに、シェイクピアの恋愛喜劇の中でも「ロマンティックな喜劇から逸脱」することから、問題劇とも言われるということを初めて知った。
ただそんなことはお構いなく、観劇前に筋ぐらい把握しておきたいという思いで、ページをめくっていった。第4幕終了までは、婚前交渉の罪で死刑を宣告されて獄中のクローディオをその妹イザベラが救い出す救出ドラマぐらいにしか思っていなかった。それが、最終幕で話がぐっと深堀されて、最後は「こういう落ちなのか~」と驚き、戸惑いの読後感となった。確かに「問題劇」と言われるだけのことはあると、シェイクスピアの仕組んだ様々な意図や解けない暗示に両手を上げて降参した。
少数派だとは思うが、個人的には、謹厳実直、職務にスーパー忠実でありながら、若くて純真無垢のイザベラの訴えに、心動かされ、よろめいてしまう公爵代理のアンジェロに大いに共感した。「なにを聖人君子ぶって、ただのエロ親父ではないか!」と憤る人もいるだろうが、「俺がこうならないと言い切れるか?」と自問する男性もそれなりに居るのではないか。まあ、この物語、駄目人間ばっかりなのだが、その中でもアンジェロはとりわけダメなのである。
読んでいて、この作品、モーツァルトがオペラにしたらどんな音楽を各シーン、各人物につけるのだろうかと頭をよぎった。この一筋縄ではいかない、人間っぽいドラマ。モーツァルトのオペラにぴったりと思うのは私だけだろうか。
演劇では、それぞれの登場人物をどう表現されるのか。ますます楽しみとなった。