Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

じゃじゃ馬ならし再説

2009年01月21日 | 音楽
 私が愛読しているブログに「charisの美学日誌」というものがある(注)。大学で哲学を講じているかたのブログで、話題は多岐にわたるが、オペラがお好きなようで、ときどきオペラの話題もでる。最近では私と同じ日に「じゃじゃ馬ならし」をご覧になったようで、その話題がでたので、興味深く読ませていただいた。
 charisさんに刺激されて、私の見方をもう一度述べたくなったので、以下、前回の補足を。

 前回のブログでも少々ふれたが、私は、字幕を見ていて、男性は女性を教え導くものという思想が散見されることに驚いた。よく考えてみると、そもそもシェイクスピアの原作がそうだと言えなくもない。けれども原作は、シェイクスピアのほかの作品と同じように、表面の下には真綿のような厚い層があり、一つの見方で割り切ろうとすると、別の見方がでてきて、単純化できない。この作品も、ペトルーチオがカタリーナを征服したのかどうか、考え始めると幾重もの解釈が可能のように思えてくる。
 けれども、オペラでは、ペトルーチオがカタリーナを教え導いたと単純化され、シェイクスピアとは異なるウエットな道徳観が前面にでている。
 私はこの点でモーツァルトの「魔笛」とリヒャルト・シュトラウスの「影のない女」を連想した。

 作曲家の中では、モーツァルトほど何事にもとらわれない人も珍しいが、そのモーツァルトが「魔笛」では、男性が女性を教え導くという思想に立っている。これはもちろんフリーメーソンの思想から来ているが、それにしても‥と私は以前から不思議な気持ちを抱いていた。女性蔑視という広い意味では、2人の男性が恋人を取り替えて女性の愛を試す「コジ・ファン・トゥッテ」を思い出すが、このオペラの場合は、結果的に癒しがたい傷を負うのは男性のほうだとも解釈できる。
 それに比べると、「魔笛」に見られる思想は複眼的な解釈の入り込む余地がない。時代が下って、「魔笛」の精神を20世紀に蘇らせようとしたリヒャルト・シュトラウスの「影のない女」も、その思想を引き継いでいる。
 私は今まで、この2つの作品について、直線で結ばれている2点のように感じていた。ところがその直線の真ん中に19世紀の「じゃじゃ馬ならし」が入ってきたので、いっきょに裾野が広がったように感じたのだ。
 当日のプログラムに載った解説では、「若い女性の内面的成長譚が、キリスト教的モラルという近代市民社会固有のイデオロギーに準拠して物語られている」とされている。そうかもしれない。でも、私としては、もう少し特異な思想として考えてみたいと思った。

 以上が前回の補足だ。音楽的には十分楽しんだ。また、歴史の中からこのオペラを発掘してくれたことに感謝している。その上での私の思考の楽しみをご披露した。

(注)「charisの美学日誌」のアドレス http://d.hatena.ne.jp/charis/20090117
コメント (2)
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