読響は1月定期の指揮者に上岡敏之を迎えた。プログラムは次のとおり。
(1)マーラー:交響曲第10番からアダージョ
(2)モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番(ピアノ:フランク・ブラレイ)
(3)ヨゼフ・シュトラウス:ワルツ「隠された引力(デュナミーデン)」
(4)リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」組曲
この日のチケットは完売、当日券売り場は閉まっていた。在京オーケストラの定期では珍しい。
マーラーが始まる。驚くほど遅いテンポで、今にも絶え入りそうな呼吸を思わせる瞬間がある。第2主題になって動きのあるテンポになったが、それもつかの間、また元のテンポに戻る。音は薄い。今まできいたことのない演奏だ。これは死を前にしたマーラーの荒涼とした心象風景だろうか。
一転してモーツァルトは、フランク・ブラレイのピアノが、肌理の細かい、適度な湿度を保った音色で、楚々とした、匂うような色香をただよわせる。オーケストラも色彩豊かだ。ブラレイは髭の生えた男性ピアニストだが、私はその演奏をきいていて、美しい人を見たときの動揺のようなものを感じた。
3曲目の「デュナミーデン」は、「ばらの騎士」のオックス男爵のワルツの素材になった曲だが、上岡敏之の指揮はテンポを機敏に伸縮させ、メロディーを1、2、3・・・の拍から解き放つ。次の「ばらの騎士」組曲への導入の域にとどまらない、明確な目的意識をもつ演奏だった。
そして「ばらの騎士」組曲。オクタヴィアンとゾフィーの二重唱は、声楽が入ったら不可能なほどテンポを落とし、また、オックス男爵のワルツの出だしは、ジクソーパズルの断片のように細分化される。舞台がないことを逆手にとって、このオペラのエッセンスを凝縮する演奏だ。
この組曲は、必ずしもストリーの進行に沿った配列にはなっていないので、私はいつも混乱して苦手だった。しかしこの日の演奏で、その意味が分かった。脈絡のないイメージが並列されて内的な幻想を生むシュール・レアリスム絵画のように、各曲がオーバーラップしてオペラの本質に触れるのだ。
上岡敏之の指揮は、すべてがスリリングだった。読響もその要求によく応えていた。このコンビはすでに数年来の共演歴をもつが、今回の定期で一つの成果に到達した。
(2009.01.23.サントリーホール)
(1)マーラー:交響曲第10番からアダージョ
(2)モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番(ピアノ:フランク・ブラレイ)
(3)ヨゼフ・シュトラウス:ワルツ「隠された引力(デュナミーデン)」
(4)リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」組曲
この日のチケットは完売、当日券売り場は閉まっていた。在京オーケストラの定期では珍しい。
マーラーが始まる。驚くほど遅いテンポで、今にも絶え入りそうな呼吸を思わせる瞬間がある。第2主題になって動きのあるテンポになったが、それもつかの間、また元のテンポに戻る。音は薄い。今まできいたことのない演奏だ。これは死を前にしたマーラーの荒涼とした心象風景だろうか。
一転してモーツァルトは、フランク・ブラレイのピアノが、肌理の細かい、適度な湿度を保った音色で、楚々とした、匂うような色香をただよわせる。オーケストラも色彩豊かだ。ブラレイは髭の生えた男性ピアニストだが、私はその演奏をきいていて、美しい人を見たときの動揺のようなものを感じた。
3曲目の「デュナミーデン」は、「ばらの騎士」のオックス男爵のワルツの素材になった曲だが、上岡敏之の指揮はテンポを機敏に伸縮させ、メロディーを1、2、3・・・の拍から解き放つ。次の「ばらの騎士」組曲への導入の域にとどまらない、明確な目的意識をもつ演奏だった。
そして「ばらの騎士」組曲。オクタヴィアンとゾフィーの二重唱は、声楽が入ったら不可能なほどテンポを落とし、また、オックス男爵のワルツの出だしは、ジクソーパズルの断片のように細分化される。舞台がないことを逆手にとって、このオペラのエッセンスを凝縮する演奏だ。
この組曲は、必ずしもストリーの進行に沿った配列にはなっていないので、私はいつも混乱して苦手だった。しかしこの日の演奏で、その意味が分かった。脈絡のないイメージが並列されて内的な幻想を生むシュール・レアリスム絵画のように、各曲がオーバーラップしてオペラの本質に触れるのだ。
上岡敏之の指揮は、すべてがスリリングだった。読響もその要求によく応えていた。このコンビはすでに数年来の共演歴をもつが、今回の定期で一つの成果に到達した。
(2009.01.23.サントリーホール)