Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

上岡敏之&新日本フィル

2009年04月30日 | 音楽
 指揮者の上岡敏之さんが新日本フィルを振るのは、今回が初めてだそうだ。合計3回の演奏会をすべて同じプログラムで通したが、私はその最終日をきいた。
(1)リヒャルト・シュトラウス:組曲「町人貴族」
(2)同:家庭交響曲

 「町人貴族」は、作曲過程で紆余曲折をへた曲だが、ともかくこれはフランスの劇作家モリエールの芝居のための付随音楽で、大規模な管弦楽曲ではなく、小編成のあっさりした曲だ。ところが上岡さんの指揮にかかると、今まできいたことのないような生きいきした表情が生まれる。その秘密は、各フレーズが、まるでオペラの登場人物のように、個性と主張をもって入ってくることにある。結果、全曲を通して、目まぐるしく陰影が交替する演奏になっていた。

 「家庭交響曲」も基本は同じ演奏だった。この曲はシュトラウスの手練手管のかぎりを尽くした構成と大規模管弦楽の変幻自在なテクスチュアーをもつので、ききごたえはさらに一層増す。たとえば、冒頭のチェロによる導入直後のオーボエのテーマは、テンポを極端に落として、長く引き伸ばされることにより、曲の空気をガラッと変える。
 また、第2部の末尾で子供が寝入る場面では(言い遅れたが、この曲ではシュトラウス自身とその妻と子供の日常的な家庭生活がえがかれている)、極限までテンポを落として、音も消え入るように減衰することによって、ほんとうに子供が寝入る瞬間のように感じられる。

 上岡さんの指揮は、この日にかぎらず、いつも常識的な表現を超えた創意工夫がみられるが、その演奏を一言でいえば、ドラマということに尽きると思う。スコアからドラマを読み取る才能は目覚しい。これは持って生まれたもので、その才能のない人はいくら努力しても身につく種類のものではない。

 指揮者にかぎったことではないが、音楽には、その本質にドラマがある音楽と、ドラマとは別の構成原理による音楽とがあると思う(私は、ここでは、ドラマという言葉をシェイクスピア的な演劇性といった意味で使っている)。
 良い例がモーツァルトとベートーヴェンのちがいで、モーツァルトの場合は、ドラマの才能があるので、オペラがその本質に合致しているが、ベートーヴェンの場合は、器楽がその本質だ。また、指揮者でいうと、小澤征爾さんは世界的に成功して、日本の指揮者界を飛躍的に向上させたが、その才能はけっしてオペラ的ではなく、器楽的だった。

 世代が変わって、ついに日本にも上岡さんのようなタイプの才能が生まれてきた。そう思うと感慨深い。
(2009.04.29.すみだトリフォニーホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする