Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

天守物語

2011年11月08日 | 演劇
 泉鏡花の「天守物語」。この作品は何度も舞台化されているし、また映画にもなり、さらにはオペラ(水野修考作曲)にもなっているので、多くのかたにはお馴染みだが、わたしは今回が初めて。もっとも、いつだったか、原作を読んだことはある。そのときは、作品の背景として、金沢文化の存在を強烈に意識した。それ以来わたしのなかには、泉鏡花=金沢という図式が根を下ろしている。

 今回初めてその舞台を観た。白井晃演出の舞台はひじょうに現代的だった。

 現代的と感じた要因は、まずスピード感。おっとりした金沢文化というイメージが覆されるシャープな感覚。これは台詞回しのテンポのよさはもちろんのこと、キーとなる言葉の選択、その印象付けという細かいことから生まれている。

 さらには音楽の効果。琴、三味線などの邦楽器が電気的に処理され、ハープその他の洋楽器と並置されている。担当は三宅純。情報に疎いわたしは知らなかったが、パリを拠点に活動を続けている音楽家。今回の音楽もパリで録音された。

 舞台美術にメタリックな要素があったことも、現代性の一因だ。あわせて、姫路城の天守閣の最上階という設定がリアルに感じられる装置だった。担当は小竹信節。

 では、このような舞台から、わたしはなにを受け止めたか。

 過去に原作を読んだときには気が付かなかったか、あるいは気が付いても忘れていたのか、ともかく、舞台を観ていて、権力にたいする揶揄に気が付いた。下界=人間界の権力者である殿様の理不尽さ。一方、天守閣の最上階=妖怪の世界に住む富姫の純粋さ。その富姫が、殿様の命令を受けてやって来た人間、図書之助(ずしょのすけ)を愛することにより、好戦的な人間界が相対化される。これには意外なリアリティがあった。本作は発表後100年近くたっているが、今も変わらない人間界を映す鏡だ。

 富姫と図書之助は、大勢の討手に追い詰められて、絶体絶命となるが、そこに機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)が現れる。演劇=虚構の解決の仕方としてはそれもありだろうが、もちろんこれは二重の虚構であって、現実には2人は滅ぶしかない。これがわたしにとっての【美×劇】――滅びゆくものに託した美意識――の所以だ。

 富姫の篠井英介(女形)、図書之助の平岡祐太、その他一人ひとりの名前は控えるが、主要な役者さんは皆個性的だった。
(2011.11.7.新国立劇場中劇場)
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