Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

碌山美術館

2013年08月07日 | 美術
 碌山美術館。いつかは行ってみたいと思っていた。念願かなってやっと行けた。レンガ造りの古い教会のような建物。それは写真で見ていたとおりだが、想像よりも小さかった。その小ささが好ましかった。

 中に入ると、荻原守衛(碌山)の彫刻が並んでいた。以前見たことのある作品もあり、また(実物としては)今回初めて見る作品もあった。時間を忘れて見ていた。そうするうちに、最後の作品「女」(碌山はこの作品を仕上げた翌月に亡くなった。享年30歳だった)が群を抜いた作品であると感じられた。白鳥の歌というと月並みな表現かもしれないが、その言葉が連想させるなにか孤高な気配が感じられた。

 「女」は相馬黒光の面影を宿している――あるいは(友人の妻である)相馬黒光への愛の苦悩を宿している――といわれている。その相馬黒光が晩年に語った「碌山のことなど」という小冊子が販売されていた。そこにはこう書かれていた。

 「絶作になった《女》は女性の悩みの絶頂をシンボルしてゐるものだと思ひます。足が地について立上れないあの姿をみて私はじっと正視してゐられませんでした。」(14頁)

 相馬黒光は当事者だったので、「足が地について立上れない」という感覚は――晩年になっても――生々しく蘇ってくるのだろう。

 でも、わたしは、それだけではなく、悩みから抜け出すというか、悩みが昇華される、まさにその一瞬を捉えた作品のようにも感じられた。それはわたしだけの感じ方かもしれないが、足が地について離れない点は黒光のいうとおりではあるにしても、全体の上昇感は、悩みから脱皮して今まさに昇華に向かうようにも感じられた。

 そう感じられたことが嬉しかった。碌山はこの作品をもって青春を終えた、あるいは、終えようとした。自分でも気づかないうちに、青春から抜け出ようとした。でも、それは人生を終えることを意味した。創作上のミューズであった黒光を失うことなく――永遠に胸に秘めて――人生を終えたのではないか。

 展示室はドアが開け放たれていた。外から涼しい風が入ってきた。クーラーの人工的な風ではなく、信州のさわやかな風だった。監視員はいなかった。だれにも監視されなかった。皆さんおとなだった。作品に触れたりはしなかった。いや、一人いた。中年の女性がしきりに触っていた。こういう人も稀にいるのだろう。それも覚悟しているのだろう。
(2013.8.3.碌山美術館)

「女」の画像↓
http://www.rokuzan.jp/jyo-ji.html
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