Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

海の夫人

2015年05月22日 | 演劇
 イプセンの「海の夫人」。イプセンの戯曲はいくつか読んだが、この作品は未読だ。イプセン61歳のときの作品。すでに代表作のほとんどを書いており、次作の「ヘッダ・ガーブレル」とともに晩年の作品の一つだ。

 「ヘッダ・ガーブレル」は新国立劇場で2010年に上演された。宮田慶子芸術監督が立ち上げたシリーズ「JAPAN MEETS… ―現代劇の系譜をひもとく―」の第1回だった。今回の「海の夫人」は第10回。本作を含めてすでに10作品が紹介されたわけだ。

 灯台守の娘だったエリーダは、医師ヴァンゲルと結婚し、先妻の娘2人と穏やかに暮らしている。そこにかつての恋人が現れる。恋人を選ぶか、夫を選ぶか――という物語。

 ‘自由’という言葉がキーワードだ。女性には自由がなかった時代。本作が初演された1888年になってやっと「結婚した女性の固有財産保有が認められた」そうだ(プログラムに掲載された毛利三彌成城大学名誉教授と宮田慶子芸術監督との対談)。それまで妻は「未成年者同様、夫の後見の下にあった」。

 自分の意思で人生を決める‘自由’を手にしたとき、エリーダの選択は――というわけだが、残念ながら、先が読めた。予想どおりの展開になった。

 全体的に濃密さに欠けた。エリーダにはもっと焦燥感があってもよかった。岡本健志津田塾大学非常勤講師のエッセイによると、20年くらい前にノルウェー国立劇場で上演されたときには、「エリーダ役を演じた女優が一糸まとわぬ姿で舞台上を悶えながら転がって自らの内面を表現するという演出」だったそうだ。なるほどと思った。

 エリーダ役は麻実れい。独特の存在感はいつものとおりだ。でも、今回の演出ではその個性に頼りすぎた面がなかったろうか。

 同様に医師ヴァンゲルを演じた村田雄浩も、苦悩の末にエリーダに選択を委ねる過程での、その苦悩が薄味だった。なので、選択の‘自由’にリアリティが欠けた。

 付け加えると、先妻の娘ボレッテは「ファザコン」だそうだ。「後妻のエリーダに父親を取られたくなかった」(前記の対談)。でも、太田緑ロランス演じるボレッテは、美しすぎて――そして聡明かつ上品すぎて――そんな泥臭さは感じられなかった。

 エリーダの元恋人は、黒いマントに黒いブーツで物々しい口調だ。ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」のようだった。
(2015.5.21.新国立劇場小劇場)
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