Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

沈黙

2015年06月29日 | 音楽
 松村禎三のオペラ「沈黙」。2012年初演のプロダクションの再演だ。ただし、今度は大劇場。2012年のときは中劇場だった。セットはそのまま移行した。舞台のサイズが違うので、さて、どうかと思ったが、不自然さは感じなかった。

 音が見違えるようによくなった。この劇場はこんなに音がよかったっけ‥というのが正直なところだ。キチジロー(ポルトガルの宣教師ロドリゴを官憲に売った男。イエスの受難の物語のユダに匹敵する)のモチーフ「タタタター」が克明に辿られている。目からうろこの鮮明さだ。

 また、海鳴りのようなコントラバスの低音。これにも驚いた。こんなに深い音がしていたとは今まで気付かなかった。もう一つ付け加えると、オハルが許嫁のモキチの名前を呼びながら、錯乱のうちに息絶えるそのときの、合唱によるキリシタンの歌、その歌が止んで、次の動きが始まろうというとき、金管がその歌をエコーのように吹き鳴らした。今までこの金管には気が付かなかった。

 下野竜也指揮東京フィルの演奏には、透徹した美しさがあった。けっして大袈裟ではなく、スコアを完璧に掌握していた。焦らず、気負わず、落着いてスコアを鳴らしていた。このオペラの(演奏面では)完成形がついに現れたと思った。感無量だ。

 ロドリゴ役の小原啓楼は2012年以来2度目だ。あのときは役への没入に圧倒された。苦悩の大きさに息を呑んだ。今回は役との間に一線を画す冷静さがあった。それは下野竜也も同じだった。表現を磨き上げる長い道のりに入ったのかもしれない。

 第1幕の最後の場でロドリゴは一人アリアを歌う。歌謡性の際立った曲だ。終始緊張を孕んだこのオペラで、この曲だけが異質だ。でも、なぜか浮いていない。なぜだろう。ロドリゴはこのとき一人だ。なので、真情を吐露できたのではないだろうか。緊張感の弛緩が(このときだけは)許された。(自分に対する)甘えが許されたのだ。

 ロドリゴ、キチジローそしてフェレイラ(ロドリゴの前任者。今は転んで沢野忠庵と名乗っている)の3人のうちで、だれがもっとも興味深いだろう。私見ではキチジローだ。一番弱くて、裏切り者のキチジロー。でも、だれでも(多かれ少なかれ)キチジローの要素を持っている。

 ユダは銀貨30枚でイエスを売った。だがキチジローは、苦しんで、苦しんで、苦しみぬいている。その違いは、彼我の感性の違いだろうか。
(2015.6.28.新国立劇場)
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