Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ザルツブルク(3):ハイティンク/ウィーン・フィル

2015年08月16日 | 音楽
 ザルツブルク3日目は2つの演奏会を聴いた。まずマチネー公演でハイテインク指揮ウィーン・フィルの演奏会。曲目はブルックナーの交響曲第8番(1890年、ノヴァーク版)。

 冒頭、もやもやした、方向感の定まらない出だし。これでいいのだと思う。時々冒頭から明快な方向感をもった演奏を聴くことがあるが、それは後講釈だ。やがて最初の強奏に達する。もちろんここでは明確な音像を結ぶ。でも、そこに至るまでのニュアンスの揺れがこの演奏にはあった。

 経過句でホルンがただ一人残って、旋律の断片を吹くところでは、なんともいえない寂寥感が漂った。ブルックナーがザンクト・フローリアンの丘陵に立って孤独に浸っているようだ。

 第1楽章フィナーレで鳴り響く金管の強奏は、ザンクト・フローリアンの教会を揺るがすオルガンの響きだろうか。一昨日ザンクト・フローリアンを訪れたばかりなので、どうしてもその印象に引きずられがちな自分に気付く。でも、そんな自分を是認した。

 第3楽章冒頭、ぞっとするほどの孤独感だ。暗くて深い淵を覗くようだ。宇宙的な孤独――この宇宙の中で自分が唯一人でいるという孤独――を感じる。こうなるとザンクト・フローリアンの印象から離れて、ブルックナーの魂の世界を垣間見るようだ。

 第3楽章のクライマックスでのシンバルは、そっと音色を添えるような柔らかい打ち方だった。けっして主役を取ろうとする気配はない。トライアングルに至っては、ほとんど聴こえないくらいだ。絶妙のセンス。

 全体的にウィーン・フィルの演奏には安らいだところがあった。自然体の演奏。自分の音楽として、絶対の自信を持って、しかも構えずに演奏していた。それができるのは、ブルックナーだからだろう。ブルックナーは、ウィーン・フィルにとって、そういう音楽なのだろう。

 そうはいっても、ウィーン・フィルも指揮者が変われば、勝手も違ってくるだろう。今回のような演奏は、やはりハイテインクが導いたものだ。ハイティンクは、ウィーン・フィルに限らず、各オーケストラの潜在的な演奏スタイルを引き出す名匠になったようだ。

 ハイティンクがベルリン・フィルを振るのを聴いたことがある(曲目はベートーヴェン2曲だった)。小節の頭にアクセントを置いて、ひたひたと押す演奏だった。そのときはベルリン・フィルに今なお伝わるDNAのようなものを感じた。
(2015.8.8.祝祭大劇場)
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