Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

焼け跡に手を差しのべて―戦後復興と救済の軌跡―

2017年01月09日 | 身辺雑記
 先月、某美術館で上掲(↑)のリーフレットを見かけた。戦後数年たった頃の幼稚園だろうか。子どもたちの服装はまだ貧しいが、子どもも大人も弾けるような明るい笑顔をしている。わたしが育ったのはこのような時期だった‥と思った。わたしがその中にいてもおかしくないような気がした。

 後で知ったのだが、その写真は1956年(昭和31年)の冬頃に戦争孤児のための施設「高風園」を撮ったものだそうだ。わたしは1951年(昭和26年)生まれだから、まさにこのような服を着ていた。戦争直後の悲惨な状態からはずいぶん改善されていたのだろう。大人も子どももこのような笑顔をしていた。明るく、活気があった。

 「高風園」は横浜市にあったそうだ。戦前から児童福祉に携わってきた平野恒(写真の中央にいる女性ではないかと思う)が、戦後、戦争によって親を失った戦争孤児が浮浪児となって荒んだ生活をしているのを見かねて、子どもたちの保護のために作ったそうだ。

 すべてが破壊され、だれもが自分が食うものを求めていた時期に、自分のためにではなく、戦争孤児のために救いの手を差しのべる人がいた‥。だれもが大変な時期だからこそ、こういうヒューマニズムが生まれたのかもしれない。

 上掲のリーフレットは、横浜都市発展記念館の機関紙だった。本文は同館のHP(※)で閲覧できる。同号は企画展「焼け跡に手を差しのべて―戦後復興と救済の軌跡―」を紹介する特集号だった。

 「高風園」を作った平野恒はその一例だった。他にも、知的障害をもつ戦争孤児の保護のための施設「光風園」や、占領軍兵士と日本人女性との間に生まれた多くの‘混血児’の保護のための施設「聖母愛育園」など、いくつかの事例が紹介されていた。

 わたしは同展を見たいと思った。幸いにも日本フィルの横浜定期があったので、その前に寄ってみることができた。上記の3つの事例の他にも、多くの事例が紹介されていた。できれば個々の事例が辿っただろうドラマをもっと掘り下げてほしいと思ったが、それは今後に期待するしかない。

 会場では占領軍が撮影した記録映像が放映されていた。明るく平和な街の光景だ。占領軍の兵士たちと横浜市民たちとの交流が温かい。わずか数か月前までは鉢巻をしめ、鬼畜米英と叫び、防空壕に立て篭もっていたが、一夜明けたらガラッと変わるのも現実なのだろう。
(2017.1.7.横浜都市発展記念館)

(※)同館のHP
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