小泉和裕がベテランの域に達してきた。今回は長い関係を保っている都響とブルックナーの交響曲第5番を演奏するので、前から楽しみにしていた。
第1楽章冒頭の低弦のピチカートが意味深く鳴った。期待が高まった。しかし直後の金管のファンファーレが幻滅だった。音に響きがない。のっぺりして、奥行きがないのだ。力んでいるだけの音。とたんに現世に引き戻された。
第1楽章を通して、音楽の流れが出ない。いつまでたっても深まらない。平板な音型が連なるだけ。そんなもどかしさを感じた。少し疲れた。
第2楽章も同様だった。音楽が動き出さない。指揮者のタクトが音楽を引っ張っているだけで、肝心の音楽がタクトを超えて動き出さない。こうなるとブルックナーは惨めなものだ。しかも、わたしは多少ショックだったのだが、情感豊かな第2主題が、突然、いかにも思い入れたっぷりに演奏されたので、指揮者の狙いが浮いてしまった。全体の流れにしっくり収まらなかった。
第3楽章スケルツォの、とくに主部は、結果的に一番流れがよかった。そこだけは音が炸裂して目覚しい成果が出た。第4楽章もその流れを期待したが、第1楽章で経験した金管のファンファーレの奥行きのない力んだ演奏が興醒めだった。
演奏後はものすごいブラヴォーが出た。わたしは驚いた。取り残された想いがした。弱々しく拍手をするのがやっとだった。
小泉和裕がこの演奏にかける意気込みは十分にわかった。だが、それが結果に結びつくとは限らず、むしろ事前の意気込みが大きければ大きいほど、結果を出すのは難しいのかもしれないと思った。今回はオーケストラが流れに乗れなかった。小泉和裕ほどのベテランでもそうなのだ。演奏は偶然のたまものとしかいえない微妙なバランスの上に成り立っているもののようだ。
なお、第3楽章と第4楽章との間に、低い機械音のような音が鳴っていた。あれはなんだったのだろう。他の方のツィッターなどを見たら、音楽評論家の山田治生氏がやはり書いておられた。都響のホームページには記載がなかった。昔話だが、都響では朝比奈隆がブルックナーを振ったときに(あれは何番だったか)、終始キンキンした機械音が鳴っていたことを思い出す。あのときは、聴衆の補聴器がしっかり耳に装着されていなかったから、というような説明だったと記憶する。
(2017.1.10.サントリーホール)
第1楽章冒頭の低弦のピチカートが意味深く鳴った。期待が高まった。しかし直後の金管のファンファーレが幻滅だった。音に響きがない。のっぺりして、奥行きがないのだ。力んでいるだけの音。とたんに現世に引き戻された。
第1楽章を通して、音楽の流れが出ない。いつまでたっても深まらない。平板な音型が連なるだけ。そんなもどかしさを感じた。少し疲れた。
第2楽章も同様だった。音楽が動き出さない。指揮者のタクトが音楽を引っ張っているだけで、肝心の音楽がタクトを超えて動き出さない。こうなるとブルックナーは惨めなものだ。しかも、わたしは多少ショックだったのだが、情感豊かな第2主題が、突然、いかにも思い入れたっぷりに演奏されたので、指揮者の狙いが浮いてしまった。全体の流れにしっくり収まらなかった。
第3楽章スケルツォの、とくに主部は、結果的に一番流れがよかった。そこだけは音が炸裂して目覚しい成果が出た。第4楽章もその流れを期待したが、第1楽章で経験した金管のファンファーレの奥行きのない力んだ演奏が興醒めだった。
演奏後はものすごいブラヴォーが出た。わたしは驚いた。取り残された想いがした。弱々しく拍手をするのがやっとだった。
小泉和裕がこの演奏にかける意気込みは十分にわかった。だが、それが結果に結びつくとは限らず、むしろ事前の意気込みが大きければ大きいほど、結果を出すのは難しいのかもしれないと思った。今回はオーケストラが流れに乗れなかった。小泉和裕ほどのベテランでもそうなのだ。演奏は偶然のたまものとしかいえない微妙なバランスの上に成り立っているもののようだ。
なお、第3楽章と第4楽章との間に、低い機械音のような音が鳴っていた。あれはなんだったのだろう。他の方のツィッターなどを見たら、音楽評論家の山田治生氏がやはり書いておられた。都響のホームページには記載がなかった。昔話だが、都響では朝比奈隆がブルックナーを振ったときに(あれは何番だったか)、終始キンキンした機械音が鳴っていたことを思い出す。あのときは、聴衆の補聴器がしっかり耳に装着されていなかったから、というような説明だったと記憶する。
(2017.1.10.サントリーホール)