今年の春のシーズンの展覧会は、見ておきたいものがいくつかあるので、早め、早めを心掛けなければならないと思いつつ、例によってぐずぐずしているが、先日、まずは大物からと「プラド美術館展」に行った。なにしろベラスケスの作品が7点も来ている。この時期、世界中からプラド美術館を訪れた人々は、さぞやがっかりしているのではないか‥と心配になる。
ベラスケスの代表作の一つ「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」(1635年頃)が目に飛び込んできたとき、その清澄な空気感に打たれた。画集で何度も見た作品だが、その空気感は実物を見ないと分からない。王太子が跨っている馬の胴体が、不自然なくらいに堂々としているのは、本作が戸口の上に掛けられ、それを見る者は低い位置から見上げることを考慮したためとか。なるほど、と納得。
本作と向かい合わせに「バリェーカスの少年」(1635‐45年)が展示されている。少年は小人で、脳に障害があった。ヴェルディのオペラ「リゴレット」を持ち出すまでもなく、当時の宮廷には、身体に障害を持つ人々が“道化”として仕えていた。少年は王太子の遊び相手。その二人が向かい合って展示されている。わたしはその中間に立って、二人を交互に見比べた。
美しく盛装した王太子が、遥か遠くの山並みを背に、凛とした風情で馬に跨っているのとは対照的に、少年は粗末な身なりで、岩陰に腰を下ろしている。だが、人間らしい表情は、むしろ少年のほうにある。わたしが共感できるのは少年のほう‥、いや、控えめにいっても、少年には王太子に劣らないくらいの人間性が感じられる。少年は王太子とともに、永遠の存在になったと思う。
展示方法に一工夫あったことも見逃せない。「バリェーカスの少年」の両横に、他の画家の作品で、同じく小人の“道化”を描いた作品が展示されている。それらの作品には宮廷人の“上から目線”が感じられる。
一方、「バリェーカスの少年」にはそれがなく、一人の人間を見る画家の視線がある。それが傑作である所以だと、本展は分かりやすく説明している。
ベラスケス以外にも、スルバラン、ムリーリョ、リベーラなどのスペインの画家、またティツィアーノ、ルーベンスなどの大家の作品が来ている。また、これは見てのお楽しみだが、「巨大な男性頭部」(1634年頃)という異形の作品がある。一見、現代アートかと見紛う作品だ。
(2018.4.11.国立西洋美術館)
(※)本展のHP(ベラスケスの上記2作品の画像が載っています)
ベラスケスの代表作の一つ「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」(1635年頃)が目に飛び込んできたとき、その清澄な空気感に打たれた。画集で何度も見た作品だが、その空気感は実物を見ないと分からない。王太子が跨っている馬の胴体が、不自然なくらいに堂々としているのは、本作が戸口の上に掛けられ、それを見る者は低い位置から見上げることを考慮したためとか。なるほど、と納得。
本作と向かい合わせに「バリェーカスの少年」(1635‐45年)が展示されている。少年は小人で、脳に障害があった。ヴェルディのオペラ「リゴレット」を持ち出すまでもなく、当時の宮廷には、身体に障害を持つ人々が“道化”として仕えていた。少年は王太子の遊び相手。その二人が向かい合って展示されている。わたしはその中間に立って、二人を交互に見比べた。
美しく盛装した王太子が、遥か遠くの山並みを背に、凛とした風情で馬に跨っているのとは対照的に、少年は粗末な身なりで、岩陰に腰を下ろしている。だが、人間らしい表情は、むしろ少年のほうにある。わたしが共感できるのは少年のほう‥、いや、控えめにいっても、少年には王太子に劣らないくらいの人間性が感じられる。少年は王太子とともに、永遠の存在になったと思う。
展示方法に一工夫あったことも見逃せない。「バリェーカスの少年」の両横に、他の画家の作品で、同じく小人の“道化”を描いた作品が展示されている。それらの作品には宮廷人の“上から目線”が感じられる。
一方、「バリェーカスの少年」にはそれがなく、一人の人間を見る画家の視線がある。それが傑作である所以だと、本展は分かりやすく説明している。
ベラスケス以外にも、スルバラン、ムリーリョ、リベーラなどのスペインの画家、またティツィアーノ、ルーベンスなどの大家の作品が来ている。また、これは見てのお楽しみだが、「巨大な男性頭部」(1634年頃)という異形の作品がある。一見、現代アートかと見紛う作品だ。
(2018.4.11.国立西洋美術館)
(※)本展のHP(ベラスケスの上記2作品の画像が載っています)