Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ジョージ・オーウェル「1984」

2018年04月19日 | 演劇
 高校2年か3年のときに、英語の副読本でジョージ・オーウェル(1903‐1950)の「アニマル・ファーム」を読んだ。最後までは行かなかったが、半分くらいは読んだ。おもしろくない本だと思った。だれかが「あれは革命後のソ連社会を風刺しているんだってね」といったが、そういわれても、ピンとこなかった。

 そのオーウェルのディストピア(反ユートピア)小説「1984年」が演劇化され、まずロンドンで上演された後、ニューヨークでも上演されたとき、観客の中に失神する人が出て騒動になったという記事を(たしか昨年)見かけた。その演劇版「1984」が今、新国立劇場で上演されている。

 原作は1948年の執筆(出版は翌年)。近未来の1984年の全体主義国家を描いた長編小説で、巻末に数ページの「附録」が付いている。「附録」では全体主義国家が言葉の管理をいかに徹底的に行ったか、それが一種学術的な文体で書かれている。それは今の我が国を想起させるようで恐ろしい。

 演劇は「2050年以降のいつか」(2050年とは言葉の管理が完了する予定だった年)に人々が原作の主人公ウィンストンが書き残した日記(=オーウェルの原作)を読む場面から始まる。1984年にはそんなことがあったのか、と。人々から離れたところに、ウィンストン本人がいる。人々の今=“2050年以降”とウィンストンの今=“1984年”とが同時に存在する。そしていつしか1984年に移行する。

 1984年に起きたことは何だったか。オーウェルが1948年に(今から70年前に)想像したディストピアは何だったか。それを2018年に生きるわたしたちはどう捉えるか、それが本作。

 わたしは、オーウェルの想像が杞憂だったのか、それとも現実はオーウェルの想像を(部分的にせよ)超えてしまったのか、それが一番気になる点だったが、今回の上演では、残念ながら、その点に関する明確な視点は見出せなかった。

 それは演出の小川絵梨子のためなのか、それとも国立の劇場でやる場合の限界なのか。もし後者なら、それこそ「1984」のメタシアターのようだ。

 登場人物たちの造形は、抽象的で、ソフトフォーカスというか、確かな実体に突き当たらないもどかしさがあった。その中にあって、ウィンストンを演じた井上芳雄が、おそらく持ち前の素質だろうが、みずみずしい感性を感じさせた。
(2018.4.17.新国立劇場小劇場)
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