大学時代の友人と続けている読書会が、今月は開催月に当たっている。今回はわたしがテーマを選ぶ番だったので、例によって日本文学、西洋文学、文学以外の書物から各1点を候補に考えたが、まず日本文学で石川淳を挙げたところ、友人はすぐに「それでいい」といった。作品は、わたしは「普賢」を想定していたが、友人は「既に読んだことがある」といって「焼跡のイエス」になった。
石川淳を候補に考えたのは、いうまでもないが、新国立劇場で来シーズンに西村朗作曲の新作オペラ「紫苑物語」が予定されているから。石川淳の小説が原作に選ばれたことは、わたしには少し意外だった。と同時に、石川淳の作品を読んだことがなかったので、全体像を把握しておきたいと思った。
読書会のテーマは「焼跡のイエス」だが、その前に「普賢」を読んでみた。講談社文芸文庫で読んだので、収録順に「佳人」、「貧窮問答」、「葦手」、「普賢」の順で読んだ。
まず「佳人」を読んで、わたしは面喰った。人を喰った小説だ。それをどう捉えたらよいか、一読しただけでは、つかみかねた。その書き出しはこうなっている。「わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでいたのだが、(後略)」。実はこのセンテンスは、引用した部分の7倍くらい、延々と続く。迷路を歩むような感覚だ。
しかも、笑ってしまうのだが、小説の最後まで「老女」は出てこない。先ほど、人を喰った、といった所以はそこだ。おまけに自虐的なユーモアがある。私小説的な書き方だが、とんでもない、フィクションであることはすぐにわかる。
一筋縄ではいかない作家だと思った。癖のある、手強い作家。その作品の中に何があるかは、そう簡単にはわからない。読み手であるこちら側も、それなりの覚悟をもって臨まないと、その核心には触れられない。率直な作家ではなく、ひねくれた作家。もちろん、ひねくれた、という言葉は賞賛の謂いだ。
「普賢」はさらにおもしろかった。基調は「佳人」と似ているが、「佳人」とは比べ物にならないくらい重層化している。「佳人」の次元を超えて一段上の次元に抜け出ている。というのは、作者の分身と思われる人物を登場させ、その人物の自死を通して、自己の内面史を描いているからだ。
分身の設定(=作者の二重性)、それによる内面史の叙述、という方法は、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を連想させる。本作には教養小説的な一面がある。それが発見だった。
石川淳を候補に考えたのは、いうまでもないが、新国立劇場で来シーズンに西村朗作曲の新作オペラ「紫苑物語」が予定されているから。石川淳の小説が原作に選ばれたことは、わたしには少し意外だった。と同時に、石川淳の作品を読んだことがなかったので、全体像を把握しておきたいと思った。
読書会のテーマは「焼跡のイエス」だが、その前に「普賢」を読んでみた。講談社文芸文庫で読んだので、収録順に「佳人」、「貧窮問答」、「葦手」、「普賢」の順で読んだ。
まず「佳人」を読んで、わたしは面喰った。人を喰った小説だ。それをどう捉えたらよいか、一読しただけでは、つかみかねた。その書き出しはこうなっている。「わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでいたのだが、(後略)」。実はこのセンテンスは、引用した部分の7倍くらい、延々と続く。迷路を歩むような感覚だ。
しかも、笑ってしまうのだが、小説の最後まで「老女」は出てこない。先ほど、人を喰った、といった所以はそこだ。おまけに自虐的なユーモアがある。私小説的な書き方だが、とんでもない、フィクションであることはすぐにわかる。
一筋縄ではいかない作家だと思った。癖のある、手強い作家。その作品の中に何があるかは、そう簡単にはわからない。読み手であるこちら側も、それなりの覚悟をもって臨まないと、その核心には触れられない。率直な作家ではなく、ひねくれた作家。もちろん、ひねくれた、という言葉は賞賛の謂いだ。
「普賢」はさらにおもしろかった。基調は「佳人」と似ているが、「佳人」とは比べ物にならないくらい重層化している。「佳人」の次元を超えて一段上の次元に抜け出ている。というのは、作者の分身と思われる人物を登場させ、その人物の自死を通して、自己の内面史を描いているからだ。
分身の設定(=作者の二重性)、それによる内面史の叙述、という方法は、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を連想させる。本作には教養小説的な一面がある。それが発見だった。