井上ひさしの東京裁判三部作の第1作「夢の裂け目」は、2001年に初演された。第2作「夢の泪(なみだ)」は2003年、第3作「夢の痂(かさぶた)」は2006年。そして2010年には三部作の連続上演が挙行された。今回は「夢の裂け目」の3度目の上演。
わたしは初演のときは観ることができなかったが、2010年の三部作連続上演を観た。密度の濃さ、問いの重さ、逃げ場のなさ、そういった息詰まるような内容に圧倒された。そして第3作「夢の痂」で訪れる思いがけないカタストロフィに浄化される想いがした。それが忘れられない。
今回は連続上演のときと比べると、9人の登場人物のうち、長老格の「清風」を演じる木場勝己を除いて、役者が一新した。本作を今後も上演し続けるための措置とのこと。とくに主人公の紙芝居屋「天声」を演じる役者が、角野卓造から段田安則に変わったことは大きい。「天声」という役が、シャープな感覚で捉え直され、現代に引き寄せられたように感じる。
端的にいって、今回わたしは、本作が少しも古びていず、むしろリアルさが増しているように感じたことが驚きだった。今、多少控えめに「驚き」といったが、実感からいうと、「衝撃」とか「ショック」とかいう感じだった。演出の栗山民也は変わっていないので、あとは役者が変わったことと、社会が変わったことがその要因だろう。
2010年と比べると、わずか8年しかたっていないのに、社会は随分変わったと思う。戦後の価値観が、今やガラガラと崩れ去っているように見える。今起きていることは何なのか。戦後とは何だったのか。それを「戦後」の出発点である東京裁判から考え直しているのが本作だと、今回はそう思った。
東京裁判では東条英機などのA級戦犯が処罰され、昭和天皇は不起訴になった。それは同時に、庶民(本作では「普通人」=我々)も責任を問われない、ということを意味すると、庶民は考えた。庶民は戦後の歩みを始めた。明るく逞しく、したたかに。庶民、万歳!と、本作はいっているように見える。
だが、本当にそうだろうか。幕切れで登場人物たち(=庶民)が輪になって、しかしその輪がだんだん小さくなって、周囲が暗くなっていく、その演出にわたしは「危機が迫っている」というメッセージを感じた。
その危機とは、戦前回帰の危機ではないだろうか。何かのツケが回ってきた、と。
(2018.6.7.新国立劇場小劇場)
わたしは初演のときは観ることができなかったが、2010年の三部作連続上演を観た。密度の濃さ、問いの重さ、逃げ場のなさ、そういった息詰まるような内容に圧倒された。そして第3作「夢の痂」で訪れる思いがけないカタストロフィに浄化される想いがした。それが忘れられない。
今回は連続上演のときと比べると、9人の登場人物のうち、長老格の「清風」を演じる木場勝己を除いて、役者が一新した。本作を今後も上演し続けるための措置とのこと。とくに主人公の紙芝居屋「天声」を演じる役者が、角野卓造から段田安則に変わったことは大きい。「天声」という役が、シャープな感覚で捉え直され、現代に引き寄せられたように感じる。
端的にいって、今回わたしは、本作が少しも古びていず、むしろリアルさが増しているように感じたことが驚きだった。今、多少控えめに「驚き」といったが、実感からいうと、「衝撃」とか「ショック」とかいう感じだった。演出の栗山民也は変わっていないので、あとは役者が変わったことと、社会が変わったことがその要因だろう。
2010年と比べると、わずか8年しかたっていないのに、社会は随分変わったと思う。戦後の価値観が、今やガラガラと崩れ去っているように見える。今起きていることは何なのか。戦後とは何だったのか。それを「戦後」の出発点である東京裁判から考え直しているのが本作だと、今回はそう思った。
東京裁判では東条英機などのA級戦犯が処罰され、昭和天皇は不起訴になった。それは同時に、庶民(本作では「普通人」=我々)も責任を問われない、ということを意味すると、庶民は考えた。庶民は戦後の歩みを始めた。明るく逞しく、したたかに。庶民、万歳!と、本作はいっているように見える。
だが、本当にそうだろうか。幕切れで登場人物たち(=庶民)が輪になって、しかしその輪がだんだん小さくなって、周囲が暗くなっていく、その演出にわたしは「危機が迫っている」というメッセージを感じた。
その危機とは、戦前回帰の危機ではないだろうか。何かのツケが回ってきた、と。
(2018.6.7.新国立劇場小劇場)