ドビュッシー没後100年プログラム。だが、1曲目にイベールの「祝典序曲」が組まれていることが、何か意味深に感じられる。「祝典序曲」は皇紀2600年(西暦1940年)奉祝のために日本政府からの委嘱で書かれた作品の一つ。作品としてはよく書けていると思うが、いわくつきの機会音楽であることは事実。それを取り上げることに(ことに現下の世相にあっては)一種の緊張を覚える。
もっとも、アシュケナージ/N響の演奏は、そんな文脈とは無関係に、作品としての出来のよさを証明するもののように聴こえた。でも、だからといって、即この曲の復権とか、そんな単純な議論に与するわけにはいかないが。
2曲目はドビュッシーの「ピアノと管弦楽のための幻想曲」。ドビュッシーの若書きの作品。後のドビュッシーの作風の萌芽が見られるという意味で、久しぶりに聴くこの曲が楽しみだったが、期待が大きすぎたのか、実際に聴くと、何ともまだるっこしくて欲求不満に陥った。
なぜだろう。演奏に問題があったわけではないので、やはり作品のせいかと、そんな思いを抱いていたら、ピアノ独奏者のジャン・エフラム・バウゼのアンコールがあった。ドビュッシーの「喜びの島」。これはすばらしかった。ピアノ1台なのに、音楽がステージから渦を巻いて流れだし、NHKホールの巨大な空間を満たした。
振り返ってみると、「ピアノと管弦楽のための幻想曲」のときは、音楽がステージ上に止まり、客席に届かないもどかしさがあったと、今更ながら気付かされた。
3曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。弦は12型の比較的小編成の演奏だったが、その演奏のニュアンス豊かだったことといったら! 冒頭のフルートのテーマの抑揚、それを引き継いだホルンの音色、そして木管各楽器、弦、最後のアンティーク・シンバルの繊細さ(2人の奏者が音色を使い分けていた)まで、一瞬たりとも気を抜けない演奏が続いた。
さすがN響と思ったが、それと同時に、それらの微妙なニュアンスをアシュケナージが細かく指示していたことも印象深かった。
4曲目の「海」も同様の演奏。それを聴いていて分かったのだが、アシュケナージはピアノでやっていたことを、オーケストラでもやろうとしている。それがアシュケナージの指揮だ。その意味ではユニークな指揮者だと思った。
(2018.6.10.NHKホール)
もっとも、アシュケナージ/N響の演奏は、そんな文脈とは無関係に、作品としての出来のよさを証明するもののように聴こえた。でも、だからといって、即この曲の復権とか、そんな単純な議論に与するわけにはいかないが。
2曲目はドビュッシーの「ピアノと管弦楽のための幻想曲」。ドビュッシーの若書きの作品。後のドビュッシーの作風の萌芽が見られるという意味で、久しぶりに聴くこの曲が楽しみだったが、期待が大きすぎたのか、実際に聴くと、何ともまだるっこしくて欲求不満に陥った。
なぜだろう。演奏に問題があったわけではないので、やはり作品のせいかと、そんな思いを抱いていたら、ピアノ独奏者のジャン・エフラム・バウゼのアンコールがあった。ドビュッシーの「喜びの島」。これはすばらしかった。ピアノ1台なのに、音楽がステージから渦を巻いて流れだし、NHKホールの巨大な空間を満たした。
振り返ってみると、「ピアノと管弦楽のための幻想曲」のときは、音楽がステージ上に止まり、客席に届かないもどかしさがあったと、今更ながら気付かされた。
3曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。弦は12型の比較的小編成の演奏だったが、その演奏のニュアンス豊かだったことといったら! 冒頭のフルートのテーマの抑揚、それを引き継いだホルンの音色、そして木管各楽器、弦、最後のアンティーク・シンバルの繊細さ(2人の奏者が音色を使い分けていた)まで、一瞬たりとも気を抜けない演奏が続いた。
さすがN響と思ったが、それと同時に、それらの微妙なニュアンスをアシュケナージが細かく指示していたことも印象深かった。
4曲目の「海」も同様の演奏。それを聴いていて分かったのだが、アシュケナージはピアノでやっていたことを、オーケストラでもやろうとしている。それがアシュケナージの指揮だ。その意味ではユニークな指揮者だと思った。
(2018.6.10.NHKホール)