Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

大野和士/都響

2019年01月11日 | 音楽
 大野和士が振る都響の1月定期は、ブルックナーとプロコフィエフの各々の交響曲第6番をメインに据えたプログラム。同じ第6番でもベートーヴェンやマーラーではない点がお洒落だと思う。昨日はブルックナーの方だったが、ブルックナーではなくショスタコーヴィチ(の交響曲第6番)でもよかったかと、一夜明けた今は思う。でも、その話題に入る前に、演奏順に1曲目から。

 1曲目はシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はコパチンスカヤ。現代の異才(=鬼才)だ。その人気ゆえか、チケットは完売だった。シェーンベルクのこの曲は、キリル・ペトレンコ指揮ベルリン・フィルと3月の定期で共演し、また夏のザルツブルク音楽祭でも共演する。

 すばらしいというか、すごい演奏だった。そんな月並みな表現では何も表現できていないと思うほど、その演奏は際立っていた。それをどう言い表したらよいだろう。わたしは、身体を大きく動かしながら、何かに挑むように演奏するその姿に、森の中の動物を連想した。

 その演奏に大野和士/都響がぴったり付けていった。常に明瞭な音像を保持しながら、敏捷に付けていく。ベルリン・フィルはこんなにぴったり付けられるだろうかと、これは贔屓目かもしれないが、正直そう思った。

 小室敬幸氏のプログラム・ノートに、この曲がベルクのヴァイオリン協奏曲と同時期に書かれたことが触れられているが、ベルクのその曲がロマン的な(陰影の濃やかな)響きを持つのに対して、シェーンベルクのこの曲は新古典主義的な(照度の高い)響きを持つことが実感された。

 それにしてもこの曲は、その後に書かれたピアノ協奏曲のように、隠れたプログラムがあるのではないだろうかと、特に第3楽章を聴きながら思った。そしてコパチンスカヤも大野和士も、じつはそのプログラムを知っていて、それを体現しているのではないだろうかと、そんな気のする演奏だった。

 2曲目のブルックナーの交響曲第6番では、大野和士にはブルックナーでもやるべきことがあると納得できる演奏だった。しなやかなフレージング、熱量を持った音、転調の瞬間の細心な作り方。そのブルックナーは、崇高さとか、ゲルマン的とか、そんな既成の価値観には当てはまらない生身のもの。だが、一方で、そのスタイルはまだ発展途上にあることも感じさせた。
(2019.1.10.サントリーホール)
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