ヘンデルのオペラは好きなので、外国に行った折に、機会があると観ていたが、「アグリッピーナ」は観たことがなかった。そこで今回のMETライブビューイングを楽しみにしていた。さすがにMETというか、歌手の力量、演出の冴え、オーケストラの躍動感、三拍子そろった名舞台だった。
歌手では、タイトルロールのジョイス・ディドナートのパワーあふれる歌唱が圧倒的なのはいうまでもない。それと並んで、ポッペアを歌ったブレンダ・レイ(レイはRaeと綴る)の若いエネルギーも要注目だ。CDを調べると、フランクフルト歌劇場でリヒャルト・シュトラウスやワーグナーを歌っている。そういう歌手がヘンデルのようなバロック・オペラで大活躍するとは――明らかに時代が変わったような気がする。
もう一人、ネローネを歌ったケイト・リンジーも注目だ。ズボン役だが、たとえばケルビーノやオクタヴィアンのような両性具有的な役柄ではなく、キレた、ワルの役柄を演じる人が現れたと、目を丸くした。幕間のインタビューで、(演出プランを見て)エアロビクスに通ったと笑っていたが、床に片手をついて、それで体を支えて歌う姿に驚嘆した。
以上の3人は女性陣だが、男性陣もオットーネを歌ったカウンターテナーのイェスティン・デイヴィーズ、皇帝クラウディオを歌ったバスのマシュー・ローズ、ともに文句なしのできだ。また、演出ともかかわるが、2人の使用人(解放奴隷)のパッランテ(バス)は軍人と設定され、ナルチゾ(カウンターテナー)は召使と設定されて、ともに歌唱だけではなく、演技でも大活躍した(歌手の名前は省略するが)。
演出はデイヴィッド・マクヴィカー。明るく、ポップで、スピード感あふれる舞台を作りあげた。そこに展開する権力への欲望と愛(それは精神的な愛よりも、むしろ性愛に傾きがちだ)をめぐるドラマは、現代社会の寓意のように見えた。わたしはこのオペラを昔からニコラス・マギガン指揮カペラ・サヴァリアのCD(1991年録音)で聴いてきたが、そのCDのイメージと今回の舞台とでは、白黒テレビと4Kテレビくらいの違いがあった。
いうまでもないが、このオペラのストーリーはモンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」の前史に当たる。このオペラは(アグリッピーナの策略にもかかわらず)ポッペアとオットーネが結ばれるまでを描くが、「ポッペアの戴冠」はポッペアがオットーネを捨てて皇帝ネローネと結ばれるまでを描く。今回の上演では幕切れで、今後の展開としての「ポッペアの戴冠」を示唆する演出が施されていた。ともかく、そのような観点からは、このオペラはポッペアが「ポッペア」になる過程を描いたものと見ることができる。台本を書いたグリマーニ枢機卿がそれを意図していたとはちょっと思えないが。
(2020.7.9.109シネマズ二子玉川)
歌手では、タイトルロールのジョイス・ディドナートのパワーあふれる歌唱が圧倒的なのはいうまでもない。それと並んで、ポッペアを歌ったブレンダ・レイ(レイはRaeと綴る)の若いエネルギーも要注目だ。CDを調べると、フランクフルト歌劇場でリヒャルト・シュトラウスやワーグナーを歌っている。そういう歌手がヘンデルのようなバロック・オペラで大活躍するとは――明らかに時代が変わったような気がする。
もう一人、ネローネを歌ったケイト・リンジーも注目だ。ズボン役だが、たとえばケルビーノやオクタヴィアンのような両性具有的な役柄ではなく、キレた、ワルの役柄を演じる人が現れたと、目を丸くした。幕間のインタビューで、(演出プランを見て)エアロビクスに通ったと笑っていたが、床に片手をついて、それで体を支えて歌う姿に驚嘆した。
以上の3人は女性陣だが、男性陣もオットーネを歌ったカウンターテナーのイェスティン・デイヴィーズ、皇帝クラウディオを歌ったバスのマシュー・ローズ、ともに文句なしのできだ。また、演出ともかかわるが、2人の使用人(解放奴隷)のパッランテ(バス)は軍人と設定され、ナルチゾ(カウンターテナー)は召使と設定されて、ともに歌唱だけではなく、演技でも大活躍した(歌手の名前は省略するが)。
演出はデイヴィッド・マクヴィカー。明るく、ポップで、スピード感あふれる舞台を作りあげた。そこに展開する権力への欲望と愛(それは精神的な愛よりも、むしろ性愛に傾きがちだ)をめぐるドラマは、現代社会の寓意のように見えた。わたしはこのオペラを昔からニコラス・マギガン指揮カペラ・サヴァリアのCD(1991年録音)で聴いてきたが、そのCDのイメージと今回の舞台とでは、白黒テレビと4Kテレビくらいの違いがあった。
いうまでもないが、このオペラのストーリーはモンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」の前史に当たる。このオペラは(アグリッピーナの策略にもかかわらず)ポッペアとオットーネが結ばれるまでを描くが、「ポッペアの戴冠」はポッペアがオットーネを捨てて皇帝ネローネと結ばれるまでを描く。今回の上演では幕切れで、今後の展開としての「ポッペアの戴冠」を示唆する演出が施されていた。ともかく、そのような観点からは、このオペラはポッペアが「ポッペア」になる過程を描いたものと見ることができる。台本を書いたグリマーニ枢機卿がそれを意図していたとはちょっと思えないが。
(2020.7.9.109シネマズ二子玉川)