新国立劇場の新制作でストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」とチャイコフスキーの「イオランタ」のダブルビルを観た。どちらも舞台で観るのは初めてだ。結論から先にいうと、どちらも楽しかった。実感としては、わたしの体内のオペラ好きの細胞が、久しぶりに活性化するのを感じた。
両作品は性格が異なるオペラだが、その性格のちがいを簡潔に示し、また童話を原作とするオペラという共通性も感じさせた。端的にいって、どちらも良いオペラだな、と思った。当プロダクションは新国立劇場のオリジナルなので、今後とも上演を重ねるだろうが、青少年向けの公演などにも活用できそうだと思った。
指揮は高関健。予定されていた指揮者がコロナ禍のために来日せず、急遽代役を頼まれたようだ。わたしの知っているかぎりでは、高関健は東京シティ・フィルや静岡交響楽団の演奏会と掛け持ちで準備を進めたようだ。ハードなスケジュールだったと思うが、オーケストラ(東京フィル)をよくまとめ、ストラヴィンスキーの変則的なリズムと、チャイコフスキーの抒情性とを的確に描き分けていた。
演出・美術・衣装はヤニス・コッコス。ストレートな演出で、とくに問題提起などはなかったが、めったに舞台上演されない両作品なので、これはこれでいいと思った。特筆すべきは美術のほうだ。「夜鳴きうぐいす」のポップな明るさと、「イオランタ」の青を基調としたしっとりした情感が美しかった。
「夜鳴きうぐいす」の結末は夜明けの場面となり、「イオランタ」の結末は(イオランタの)視覚の回復の場面となるので、両作品は「光」の場面で終わる共通点がある。そのことを観客に意識させるかのように、両作品のエンディングでは、舞台奥を明るく照らしだし、歌手たちが黒いシルエットになる点で共通していた。
違和感をもった点がひとつあるので、それもいっておきたい。「イオランタ」でヴォデモン伯爵が盲目のイオランタに、神の恩寵としての自然の美しさを説く場面で、白銀に輝くアルプスの山々や、広大な原野に流れ落ちる滝の映像を使っていたが、わたしの感覚では、もっと身近な、たとえば樹林の木漏れ日とか、草の上の露の一滴とか、そんな小さなもののほうがふさわしいと思った。
歌手ではタイトルロールの三宅理恵(「夜鳴きうぐいす」)と大隅智佳子(「イオランタ」)が公演の成功を支えた。「イオランタ」でヴォデモン伯爵を歌った内山信吾は、高音が出ずに不調だったが、それでも懸命に声をコントロールしていた。わたしは心中ひそかに声援を送った。
(2021.4.11.新国立劇場)
両作品は性格が異なるオペラだが、その性格のちがいを簡潔に示し、また童話を原作とするオペラという共通性も感じさせた。端的にいって、どちらも良いオペラだな、と思った。当プロダクションは新国立劇場のオリジナルなので、今後とも上演を重ねるだろうが、青少年向けの公演などにも活用できそうだと思った。
指揮は高関健。予定されていた指揮者がコロナ禍のために来日せず、急遽代役を頼まれたようだ。わたしの知っているかぎりでは、高関健は東京シティ・フィルや静岡交響楽団の演奏会と掛け持ちで準備を進めたようだ。ハードなスケジュールだったと思うが、オーケストラ(東京フィル)をよくまとめ、ストラヴィンスキーの変則的なリズムと、チャイコフスキーの抒情性とを的確に描き分けていた。
演出・美術・衣装はヤニス・コッコス。ストレートな演出で、とくに問題提起などはなかったが、めったに舞台上演されない両作品なので、これはこれでいいと思った。特筆すべきは美術のほうだ。「夜鳴きうぐいす」のポップな明るさと、「イオランタ」の青を基調としたしっとりした情感が美しかった。
「夜鳴きうぐいす」の結末は夜明けの場面となり、「イオランタ」の結末は(イオランタの)視覚の回復の場面となるので、両作品は「光」の場面で終わる共通点がある。そのことを観客に意識させるかのように、両作品のエンディングでは、舞台奥を明るく照らしだし、歌手たちが黒いシルエットになる点で共通していた。
違和感をもった点がひとつあるので、それもいっておきたい。「イオランタ」でヴォデモン伯爵が盲目のイオランタに、神の恩寵としての自然の美しさを説く場面で、白銀に輝くアルプスの山々や、広大な原野に流れ落ちる滝の映像を使っていたが、わたしの感覚では、もっと身近な、たとえば樹林の木漏れ日とか、草の上の露の一滴とか、そんな小さなもののほうがふさわしいと思った。
歌手ではタイトルロールの三宅理恵(「夜鳴きうぐいす」)と大隅智佳子(「イオランタ」)が公演の成功を支えた。「イオランタ」でヴォデモン伯爵を歌った内山信吾は、高音が出ずに不調だったが、それでも懸命に声をコントロールしていた。わたしは心中ひそかに声援を送った。
(2021.4.11.新国立劇場)