Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

大岡昇平「俘虜記」

2020年06月16日 | 読書
 大岡昇平の「俘虜記」は12章から成る。各章は順次文芸誌に発表された。第1章(以下、本作には通し番号は付いていないが、便宜的に付番する)の「捉まるまで」は「文学界」1948年2月号に発表。それ以降、第11章「俘虜演芸大会」が「人間」1951年1月号に発表されるまで、約3年間にわたって書き継がれた(最終章の第12章「帰還」は「改造」1950年10月号に発表)。

 3年間で文体は変化していないが、俘虜体験の時系列に応じて、各章のトーンは変化する。第1章「捉まるまで」の極限的な緊張感は、「野火」で全面的に展開するテーマの萌芽だ。第2章「サンホセ野戦病院」から第4章「パロの陽」までは、第1章の「捉まるまで」の緊張感を引きずりながら、俘虜の状態への適応過程を反映する。第5章「生きている俘虜」から第12章「帰還」までは俘虜の弛緩した状態を描く。

 わたしが感銘を受けたのは第1章から第4章までだが、第5章「生きている俘虜」以下も興味が尽きない。それはわたしが子どもの頃に見ていた大人たちの肖像画、いや、その集団肖像画という感じがした。

 わたしが生まれたのは多摩川の河口の町だ(1951年に生まれた)。一帯には町工場がひしめき、けっして品のいい町ではなかった。わたしが子どものときに見た大人たちは、第5章「生きている俘虜」以下と重なるものがあった。敗戦の体験は大人たちに何の反省ももたらさなかったらしい。だが、たとえば平成生まれの人たちは、本作を読んでどう感じるのか。わたしと同じ思いを抱くなら、それはすなわち、わたしの世代も、わたしの子ども時代の大人たちと変わらないことになる。

 もう一つ、本作を読みながら考えたことは、プリーモ・レーヴィの「これが人間か(アウシュヴィッツは終わらない)」と「溺れるものと救われるもの」との比較だ。レーヴィの場合はナチスの強制収容所での体験、大岡昇平の場合はアメリカ軍の俘虜収容所での体験だが、共通点がある一方で、根本的な相違点もある。

 たとえば「溺れるものと救われるもの」で印象的に指摘された「灰色の領域」(特権的な被収容者の存在)は「俘虜記」にも見られる。それが収容所というものの基本的な性格かもしれない。その一方で、「これが人間か(アウシュヴィッツは終わらない)」で描かれた飢餓、奴隷労働そして死は、「俘虜記」の場合は飽食、軽い労働そして生に置き換わる。

 同じ日本人でもシベリアに抑留された人々もいた。その人たちはアウシュヴィッツと似た環境にあった。「死」はアウシュヴィッツの場合は目的、シベリア抑留の場合は結果だが、飢餓と奴隷労働は似ている。「俘虜記」の場合とは天国と地獄の差だ。

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