Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

コンヴィチュニー演出「影のない女」

2024年11月08日 | 音楽
 東京二期会が上演したオペラ「影のない女」が炎上している。炎上の原因はペーター・コンヴィチュニーの演出だ。わたしは観ていないので伝聞情報だが、リヒャルト・シュトラウスの音楽を一部カットしたり、入れ替えたりしたようだ。またホフマンスタールの台本をマフィアの抗争のストーリーに読み替えたらしい。それらの点について反対派と擁護派のあいだで論争が起きている。

 上記のように、わたしは観ていないので、何もいう資格がないと思っていたが、11月6日の朝日新聞デジタルに吉田純子氏の「演出に「冒涜」と批判も 「影のない女」が問う日本のオペラの現在地」という記事が載った。俯瞰的な視点から今回の上演を論じている。やっとわたしも意見をいう土俵ができた思いがする。

 吉田純子氏の記事は次のセンテンスで始まる。「オペラが重視すべきは生身の演劇性か、それとも音楽への忠誠か。」。このセンテンスが記事の問題提起を要約する。オペラを制作し、またそれを鑑賞する意味は、生々しい演劇性にあるのか、それとも作曲家の書いた音楽を聴くことにあるのか、と。

 記事は岡田暁生氏、長木誠司氏、片山杜秀氏に取材している。今回の上演について聞くべき三人だろう。三人の語ることには含蓄がある。一読をお勧めしたい。

 その上でわたしの意見をいうと、オペラとはまず台本があり、その台本に音楽を付けたものだが、その場合の音楽とは、ドラマをどのようなテンポで進め、ドラマの流れにどのような抑揚をつけ、またどの言葉を強調し、言葉にどのような陰影をつけ、さらに言葉を発したときに周囲の人々はどのように反応するか等々を表現したものだ。そのような台本の読解と表現は、演出に似ている。オペラとはすでに作曲家の「演出」が加わったものだ。だから演奏会形式上演という形態も成り立つ。一方、舞台上演の場合は、一世紀も二世紀も前に作られたものなので、台本も音楽も現代の感覚とは異なるため、現代の感覚で提示する試み(=演出)の余地がある。

 だが、舞台上演の場合、演出家の仕事は二次的な演出という側面が出る。そこに難しさとおもしろさがある。台本プラス音楽というひとつのパッケージで提示するか、そこに現代的な感覚を加えて提示するか。後者の場合は、作品とのあいだに一種の軋みが生じる。その軋みが観客への問いとなる。

 コンヴィチュニーはオペラの読解の鋭さが天才的だ。名作といわれるオペラでも、現代の観客が潜在的に違和感をもつ点がある。コンヴィチュニーはその点をないがしろにせず、あえて抉り出して提示する。わたしはそのたびに感銘を受けた。
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2 コメント

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Unknown (音楽ファン)
2024-11-10 11:42:13
言及されているとおり、この演出は観る側に色々な問題を提起しており、観る側に問いかけと思考を求める舞台といえます。世界は、あるいは人生は、ただ美しいこと、気持ちのいいことだけで成り立っているわけではなく、多くの不条理や矛盾にも満ちている、ということを解き明かしていると思いました。かつて吉田秀和氏は、このオペラについて、「はじめは戸惑う」が「音楽をていねいに聴いていくと、たっぷり楽しみがある作品」と述べています。今回の公演でも、つくづくその通りと感じました。
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Unknown (Eno)
2024-11-10 17:51:26
>音楽ファン さんへ

 おっしゃることに完全に同感です。オペラに限らず芸術は、甘い夢で慰撫してくれるものではなく、世界は(あるいは人生は)「多くの不条理や矛盾にも満ちている、ということを解き明かしている」ものだと思います。
 コメントありがとうございます。
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