1934年グルジア生まれのオタール・イオセリアーニの映画「汽車はふたたび故郷へ」を観た。これは半・自伝的な作品だが、自伝を意図しているわけではなく、不器用な、ありのままの自分でしか生きられない人への賛歌だ。
グルジアの小村で親友たちと楽しい少年時代をすごすニコ(イオセリアーニの分身)。やがて青年になって映画を作るが、旧ソ連体制下では検閲を通らない。どこにも居場所のないニコ。ある人の助言でパリに向かうが、パリでは売れる映画であることが第一条件だ。結局パリにも居場所がなくてグルジアに戻るニコ。
このようなストーリーが淡々と、むしろユーモアを交えて、飄々と描かれる。それはニコ自身の感覚の表現でもある。ニコはいつもありのままの自分自身でしかいられない。人に合わせることはできない。人と競うこともできない。人とうまくいかないことも多い。ニコはニコなりに努力している。だが実を結ばないことが多い。
そういうニコだが、その周囲にはいつもニコを助ける人がいる。家族であったり、親友であったり、ときには体制側の政府高官であったり。ニコはいつも自分自身であるがゆえに、不器用な生き方しかできないが、反面そのことが親しい人を招き寄せる。そういう人たちがいつも周囲にいることが、ほのぼのとした空気を生む。
最後はアッと驚く幻想的な終わり方をする。あれはなんだろうという余韻が残る。もちろん伏線はあった。だがあのような終わり方に結び付くとは思いもしなかった。そこに込められた意味をめぐって、わたしは今もあれこれと想像している。
この映画には音楽がいつも静かに流れている。それは少年がチェロの練習をしている場面であったり、パリの街角で老人がピアノを弾く場面であったり、カセットテープからグルジアの合唱が流れてくる場面であったりする。それらの静かな音楽が心地よい。
ニコをふくめて登場人物はいつもみんな酒を飲んだり、煙草を吸ったりしている。そのことも、ゆったりとした、穏やかな流れを作っている。
イオセリアーニはインタビューのなかで「すべてにあらがって、石になる喜び」を観客と共有したいと言っている。石になる喜び――自分自身である喜び。今まで人に合わせて、妥協し、言いたいことも言わずに、なんとかここまでやってきたわたしには、羨ましく、眩しい言葉だ。
(2012.4.5.岩波ホール)
グルジアの小村で親友たちと楽しい少年時代をすごすニコ(イオセリアーニの分身)。やがて青年になって映画を作るが、旧ソ連体制下では検閲を通らない。どこにも居場所のないニコ。ある人の助言でパリに向かうが、パリでは売れる映画であることが第一条件だ。結局パリにも居場所がなくてグルジアに戻るニコ。
このようなストーリーが淡々と、むしろユーモアを交えて、飄々と描かれる。それはニコ自身の感覚の表現でもある。ニコはいつもありのままの自分自身でしかいられない。人に合わせることはできない。人と競うこともできない。人とうまくいかないことも多い。ニコはニコなりに努力している。だが実を結ばないことが多い。
そういうニコだが、その周囲にはいつもニコを助ける人がいる。家族であったり、親友であったり、ときには体制側の政府高官であったり。ニコはいつも自分自身であるがゆえに、不器用な生き方しかできないが、反面そのことが親しい人を招き寄せる。そういう人たちがいつも周囲にいることが、ほのぼのとした空気を生む。
最後はアッと驚く幻想的な終わり方をする。あれはなんだろうという余韻が残る。もちろん伏線はあった。だがあのような終わり方に結び付くとは思いもしなかった。そこに込められた意味をめぐって、わたしは今もあれこれと想像している。
この映画には音楽がいつも静かに流れている。それは少年がチェロの練習をしている場面であったり、パリの街角で老人がピアノを弾く場面であったり、カセットテープからグルジアの合唱が流れてくる場面であったりする。それらの静かな音楽が心地よい。
ニコをふくめて登場人物はいつもみんな酒を飲んだり、煙草を吸ったりしている。そのことも、ゆったりとした、穏やかな流れを作っている。
イオセリアーニはインタビューのなかで「すべてにあらがって、石になる喜び」を観客と共有したいと言っている。石になる喜び――自分自身である喜び。今まで人に合わせて、妥協し、言いたいことも言わずに、なんとかここまでやってきたわたしには、羨ましく、眩しい言葉だ。
(2012.4.5.岩波ホール)