エッシェンバッハ指揮N響のCプロはマーラーの交響曲第5番。壮麗に鳴る金管、艶のある音色のチェロ、ピアニスト出身を思わせるエッシェンバッハの、隠れた音型を浮き上がらせる解釈という具合に、聴きどころ満載の演奏だった。もっとも、Aプロのベートーヴェンの交響曲第7番のときのような精神の輝きは感じなかったが。
マーラーの交響曲第5番の演奏とベートーヴェンの交響曲第7番の演奏と、どこがどうちがうかを具体的に指摘することはできないが、感覚的にいうなら、ベートーヴェンの交響曲第7番のときは、空に抜けるような音が鳴ったのにたいして、マーラーの交響曲第5番では、楽員が必死に譜面にくらいついているような印象を受けた。
それだけ楽員を本気にさせたのはエッシェンバッハの力だ。譜読みと集中力が並外れた指揮者なのだろう。前回来日時(2020年1月)のマーラーの交響曲第2番「復活」(Cプロ)とブラームス(シェーンベルク編曲)のピアノ四重奏曲第1番(Aプロ)は、N響との関係にぎくしゃくしたものを感じたが、今回はそれがなかった。
エッシェンバッハの指揮は、今回のほうがストレートだった。前回のマーラーと、とりわけブラームスのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏はツィモン・バルト)(Aプロ)は、テンポの変化にデフォルメされた面があったが、今回は大筋でそれがなかった。
第1楽章と第2楽章の、襞の多い、ニュアンスの深い谷間を覗きこむような演奏。一転して第3楽章の、安定したホルン独奏に惹かれはしたが、それでもなお単調さを感じるのは、曲のせいか演奏のせいか、と自問自答した演奏。第4楽章の弦楽器の(とくにチェロの)、ホールいっぱいに鳴り響く威力に驚嘆した演奏。第5楽章の、狂乱の中にもこんなに細かい音型が埋めこまれていたのかと、発見にふるえた演奏。
一言でいって、意義深い演奏だったと思う。ナルシズムとかヒロイズムとか、そんな音楽外のものとは無縁な、ひたすら譜面を読みこんだ、誠実で愚直な演奏だった。
不思議なもので、ベートーヴェンの交響曲第7番もマーラーの交響曲第5番も、わたしは聴きすぎて、もう感動しなくなったと思っていた曲だが、それらの曲で感動した(少なくともベートーヴェンの交響曲第7番では感動した。神々しい演奏だと思った)、もしくは、控えめにいっても、新鮮な気持ちで聴くことができたのは、稀有な経験だった。
エッシェンバッハは今年82歳だ。同年齢のほかの指揮者を考えるにつけ、人間の年の取り方を考える。
(2022.4.16.東京芸術劇場)
マーラーの交響曲第5番の演奏とベートーヴェンの交響曲第7番の演奏と、どこがどうちがうかを具体的に指摘することはできないが、感覚的にいうなら、ベートーヴェンの交響曲第7番のときは、空に抜けるような音が鳴ったのにたいして、マーラーの交響曲第5番では、楽員が必死に譜面にくらいついているような印象を受けた。
それだけ楽員を本気にさせたのはエッシェンバッハの力だ。譜読みと集中力が並外れた指揮者なのだろう。前回来日時(2020年1月)のマーラーの交響曲第2番「復活」(Cプロ)とブラームス(シェーンベルク編曲)のピアノ四重奏曲第1番(Aプロ)は、N響との関係にぎくしゃくしたものを感じたが、今回はそれがなかった。
エッシェンバッハの指揮は、今回のほうがストレートだった。前回のマーラーと、とりわけブラームスのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏はツィモン・バルト)(Aプロ)は、テンポの変化にデフォルメされた面があったが、今回は大筋でそれがなかった。
第1楽章と第2楽章の、襞の多い、ニュアンスの深い谷間を覗きこむような演奏。一転して第3楽章の、安定したホルン独奏に惹かれはしたが、それでもなお単調さを感じるのは、曲のせいか演奏のせいか、と自問自答した演奏。第4楽章の弦楽器の(とくにチェロの)、ホールいっぱいに鳴り響く威力に驚嘆した演奏。第5楽章の、狂乱の中にもこんなに細かい音型が埋めこまれていたのかと、発見にふるえた演奏。
一言でいって、意義深い演奏だったと思う。ナルシズムとかヒロイズムとか、そんな音楽外のものとは無縁な、ひたすら譜面を読みこんだ、誠実で愚直な演奏だった。
不思議なもので、ベートーヴェンの交響曲第7番もマーラーの交響曲第5番も、わたしは聴きすぎて、もう感動しなくなったと思っていた曲だが、それらの曲で感動した(少なくともベートーヴェンの交響曲第7番では感動した。神々しい演奏だと思った)、もしくは、控えめにいっても、新鮮な気持ちで聴くことができたのは、稀有な経験だった。
エッシェンバッハは今年82歳だ。同年齢のほかの指揮者を考えるにつけ、人間の年の取り方を考える。
(2022.4.16.東京芸術劇場)