Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

夕鶴

2016年07月02日 | 音楽
 まず幕開き直後の子供たちと与ひょうとの掛け合いで、与ひょう(小原啓楼)の日本語がはっきり聴き取れることに感嘆した。やがてつう(澤畑恵美)が登場。日本語が与ひょうほどは聴き取れない。運ず(谷友博)と惣ど(峰茂樹)が登場。与ひょうと同じくらい日本語が聴き取れる。

 日本語の聴き取りやすさという点では、最後までこうだった。男声3人の日本語が客席にまっすぐ届いてくるのにたいして、つうの日本語は舞台にこもっていた。神経を集中して言葉を聴き取らないと、意味がつかめない負荷がかかった。

 発声のゆえだろうか。そうかもしれないが、團伊玖磨が書いた男声3人とつうとの音楽の違いもありそうだと思った。男声3人はレチタティーヴォ様式で書かれているが、つうは‘西洋オペラ’のアリア様式で書かれている。その違いが日本語の聴き取りやすさ(聴き取りにくさ)の一因だったかもしれない。

 このオペラはそう書かれていると気付いたことが、今回の収穫だった。そして忘れずに記しておくが、前記の男声3人の日本語の聴き取りやすさも感動的だった。あえてもう一つ挙げるなら、布を2枚織り上げた後のつうの、憔悴しきった姿がリアルだった澤畑恵美の演技か。

 こんなことを言っては申し訳ないが、大友直人の指揮には興味を覚えなかった。「つうのテーマ」と言ってよいのかどうか、あの何度も登場する甘美なテーマはそれらしく、また緊張する場面ではそれなりにと、部分、部分はとりたてて文句を言う筋合いではないのだが、全体を貫くドラマが欠けていた。前回2011年に指揮をした高関健のほうが新鮮な音楽を奏でていたと思う。

 演出、美術、衣装、照明、振付は申し分ない。一級品だ。わたしは2度目なので新たな発見はなかったが、唯一、幕切れで子供たちが舞台の奥を向いて、鶴が飛び去るのを見送る場面で、子供たちの姿が右側の壁面にシルエットで映し出される点は、前回は見逃していた。

 今回は1階正面の前方の席で観たのだが、周囲には何人か、舞台に集中しない人たちがいた。体をゆすったり、時々あたりを見回したり、そのうち、後ろの席の人は飴を取りだしたようで、袋を延々と(いつまでたっても)クチャクチャさせていた。劇場側としては、チケットを買ってくれるなら、ありがたい存在だろうが、この劇場にはオペラ・ファンが育っていないことも感じた。
(2016.7.1.新国立劇場)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金洪才/光州市立交響楽団 | トップ | ラザレフ/日本フィル »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

音楽」カテゴリの最新記事