Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

オペラ「紫苑物語」

2019年02月18日 | 音楽
 オペラ「紫苑物語」の初日。劇場に着いて開演を待つ間、(変な言い方だが)わたしにとってオペラ「紫苑物語」の収穫は、すでに半分は終わったと思った。作曲者の西村朗、オペラ化の仕掛け人・長木誠司、台本作成の佐々木幹郎、芸術監督としてオペラ化に深く関わった大野和士そして演出の笈田ヨシ、これらの人々が夢中になってオペラを作る様子に、わたしは目を見張った。

 オペラとはこうして作るものか、こうやって夢中にならなければ、オペラは作れるものではないのだ、ということがよくわかった。その結果はまた別の話だ。

 で、その結果だが、第一にあげたい点は、台本の見事さだ。石川淳の、短編ながら、直線的には進まず、複雑な経路をたどる原作を、大胆に凝縮して、オペラにふさわしい台本を作り上げた。日本のオペラ史上画期的な台本だと思う。

 次に音楽だが、それはオペラの大衆性を踏まえた音楽で、オペラをよく知った人の手になるものと実感された。全2幕からなるが、とくに第1幕はじっくり進み(それとは対照的に第2幕は話の進行が速くなる。オペラの常套手段だろう)、各場面の音楽が十分な長さを持っている。いずれ管弦楽用の抜粋版も可能かもしれない。

 だが、幕切れの音楽には戸惑った。そこでは「鬼の歌」が聴こえるのだが、その「鬼の歌」が、たとえていえば微かに吹く風のように、不分明な幽けき(かそけき)音として作曲された。それはそれでわかるが、一方では、世界の崩壊とか、苦悩の末の浄化とか、そんなカタストロフィが訪れないのだ。

 わたしは帰宅後、石川淳の原作に当たってみた。そこにはこう書かれていた、「なにをいうとも知れず、はじめはかすかな声であったが、木魂がそれに応え、あちこちに呼びかわすにつれて、声は大きく、はてしなくひろがって行き、谷に鳴り、いただきにひびき、ごうごうと宙にとどろき、岩山を越えてかなたの里にまでとどろきわたった。」と。

 このくだりは読経と合唱に代えられたが、それは十分な展開を見せずに、結末の「紫苑の一むらのほとり」の鬼の歌に移った。わたしは気持ちの持っていき場を失った。そんな観客の気持を一点に落とし込むように、(詳述は避けるが)演出上の工夫があった。それは前記の人々の“読解”のヴィジュアル化だったかもしれない。

 最後になったが、公演は、歌手たち、指揮者とオーケストラ、合唱、演出と舞台美術チーム、それらすべての人々の熱気が伝わる感動的なものだった。
(2019.2.17.新国立劇場)

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