N響の第2000回公演。ルイージの指揮でマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」。第1部冒頭の合唱が、力まずに、さらりと入る。勢い込んだ入りとは違う。演奏はだんだん熱が入る。バンダが加わるコーダは圧倒的な音量でNHKホールの巨大な空間を満たした。第2部の冒頭は神経のこもった弱音だ。荒涼とした岩山の風景が浮かぶ。ハープにのって第1ヴァイオリンがゆったり奏でる部分が美しい。聖母マリアが降臨して、ホールが愛に満たされるようだ。だからこそ、グレートヒェンを表す第2ソプラノの歌に説得力があった。神秘の合唱の出だしの再弱音にゾクゾクする。コーダでは肯定的な音が鳴った。
独唱者はオーケストラの後ろに配置された(聖母マリアを表す第3ソプラノはオルガン席で歌った)。その配置は独唱者には不利だが、承知の上だろう。当日の主役はオーケストラだ。第2000回公演という節目の演奏会なので、聴衆にオーケストラを聴いてほしいのだろう。
N響の演奏は気合が入っていた。N響は「一千人の交響曲」を2016年9月の定期演奏会でも演奏した。指揮はパーヴォ・ヤルヴィだった。もちろんそれも良かった。そのときの演奏とルイージが指揮した今回の演奏をくらべると(わたしはパーヴォを支持しているので、パーヴォを云々するのではないのだが)、今回の演奏には音に優しさがあった。だから上述のようにホールが愛に満たされる感覚があったのだろう。
独唱者では第2ソプラノのヴァレンティーナ・ファルカシュの艶のある声に惹かれた。N響とは2019年9月にリヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」から最後の場面で共演したことがある(指揮はパーヴォだった)。そのときは細かいヴィブラートが気になったが、今回は気にならなかった。また第1アルト(サマリアの女を表す)のオレシア・ペトロヴァはN響とは2022年9月のヴェルディの「レクイエム」で共演したことがある(指揮はルイージ)。今回はそのときほど印象に残らなかった。
合唱は新国立劇場合唱団。児童合唱はNHK東京児童合唱団。児童合唱のはつらつとした歌声が印象的だ。児童合唱は全員暗譜。すごいものだ。
それにしてもこの曲は、第1部「来たれ、創造主である聖霊よ」では中世の聖職者の詩句を使い、第2部「『ファウスト』の最後の場」ではゲーテの戯曲を使う。まったく無関係のテクストをつなぎ合わせるマーラーの力技に感服するが、すんなり頭に入らないことも事実だ。もうひとつの問題は、『ファウスト』の最後の場では本来、空中を浮遊するファウストの魂が感じられなければならないが、最後の場だけ取り出すと、それが難しい点だ。無関係のテクストをつなぎ合わせた結果だから仕方ないが。
(2023.12.17.NHKホール)
独唱者はオーケストラの後ろに配置された(聖母マリアを表す第3ソプラノはオルガン席で歌った)。その配置は独唱者には不利だが、承知の上だろう。当日の主役はオーケストラだ。第2000回公演という節目の演奏会なので、聴衆にオーケストラを聴いてほしいのだろう。
N響の演奏は気合が入っていた。N響は「一千人の交響曲」を2016年9月の定期演奏会でも演奏した。指揮はパーヴォ・ヤルヴィだった。もちろんそれも良かった。そのときの演奏とルイージが指揮した今回の演奏をくらべると(わたしはパーヴォを支持しているので、パーヴォを云々するのではないのだが)、今回の演奏には音に優しさがあった。だから上述のようにホールが愛に満たされる感覚があったのだろう。
独唱者では第2ソプラノのヴァレンティーナ・ファルカシュの艶のある声に惹かれた。N響とは2019年9月にリヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」から最後の場面で共演したことがある(指揮はパーヴォだった)。そのときは細かいヴィブラートが気になったが、今回は気にならなかった。また第1アルト(サマリアの女を表す)のオレシア・ペトロヴァはN響とは2022年9月のヴェルディの「レクイエム」で共演したことがある(指揮はルイージ)。今回はそのときほど印象に残らなかった。
合唱は新国立劇場合唱団。児童合唱はNHK東京児童合唱団。児童合唱のはつらつとした歌声が印象的だ。児童合唱は全員暗譜。すごいものだ。
それにしてもこの曲は、第1部「来たれ、創造主である聖霊よ」では中世の聖職者の詩句を使い、第2部「『ファウスト』の最後の場」ではゲーテの戯曲を使う。まったく無関係のテクストをつなぎ合わせるマーラーの力技に感服するが、すんなり頭に入らないことも事実だ。もうひとつの問題は、『ファウスト』の最後の場では本来、空中を浮遊するファウストの魂が感じられなければならないが、最後の場だけ取り出すと、それが難しい点だ。無関係のテクストをつなぎ合わせた結果だから仕方ないが。
(2023.12.17.NHKホール)