Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

坂本繁二郎展

2019年08月16日 | 美術
 坂本繁二郎(1882‐1969)の没後50年を記念した展覧会が開かれている。坂本繁二郎の長い画歴のポイントを押さえ、その生涯を辿る内容だ。

 今更いうまでもないが、坂本繁二郎と青木繁(1882‐1911)は同郷(福岡県久留米市)かつ同年生まれ。切っても切れない関係だ。二人は小学校の同級生で、ともに地元の画塾で絵を学んだが、その後の歩みは大きく分かれた。伝記的な事項を書いても煩瑣なだけなので、一切省略するが、二人の歩みは、ウサギとカメの譬えでいえば、ウサギの青木繁対カメの坂本繁二郎という格好だ。

 でも、二人は親友であり続けた。青木繁が「海の幸」を描いた房総半島の布良海岸の宿には坂本繁二郎も同宿した。「海の幸」の制作を見たときの坂本繁二郎の衝撃が想像できるようだ。当時の坂本繁二郎はまだ無名。坂本繁二郎が1912年の文展に出した「うすれ日」(本展にも展示されている)が夏目漱石の目に留まり、その展覧会評で取り上げられるのは、青木繁が亡くなった翌年だ。

 坂本繁二郎は1921年から1924年までフランスに渡る。その3年間で淡く明るい色彩とソフトフォーカスの作風を確立したと、わたしは今まで思っていたが、本展で1916年制作の「馬」を見たら、すでにその萌芽が窺えた。その作風は坂本繁二郎の持って生まれた資質だったようだ。

 おもしろい点は、坂本繁二郎は、帰国後、中央画壇を避けて、久留米に引っ込んでしまうことだ。画題はその頃から馬が多くなる。今日では坂本繁二郎の代表作とされる馬の絵の数々が生まれる。1940年前後からは馬に代わって、柿、リンゴ、馬鈴薯などの野菜やその他の身近なものが画題になる。戦争中はそれらの絵を描いた。同世代の藤田嗣治(1886‐1968)や川端龍子(1885‐1966)などが盛んに戦争画を描いたのと対照的だ。

 さらにおもしろい点は、戦争が終わっても、画題は変わらず、それらの野菜や身近なものを描き続けたことだ。それらの画題は、戦争という冬の時代の過ごし方でもあったろうが、それ以上に本質的な何かがあったのかもしれない。戦後には能面の絵も多くなるが、それらの能面も坂本繁二郎の手元にあったもので、身近なものの一種だ。

 最晩年には月が画題になる。チラシ(↑)に使われている「月」(1966年)は、わたしが本展でもっとも美しいと思った絵だ。坂本繁二郎と同郷で、少なくとも若い頃は付き合いのあった高島野十郎(1890‐1975)も、同時期に月の絵を描いている。関連はあるのだろうか。
(2019.8.14.練馬区立美術館)
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