新潮文庫の100冊を読む。
その第2弾は「ラッシュライフ」伊坂幸太郎。
新潮文庫の100冊の紹介文はこう書かれている。
「未来は誰にもわからない。だから「今」を思い切り生きるんだ」
「父の自殺の衝撃から立ち直れない青年。職を失い家族にも見捨てられた中年男。失意のふたりは、自分でも気づかぬまま殺人事件に巻き込まれる。そこにクールな泥棒、殺人を企む女、歩くバラバラ死体までが登場。絶妙な偶然によって結びつけられた彼らを待つスリリングな展開、そしてその先に開ける思いがけない未来とは。絶望から希望へのあざやかすぎるドンデン返しに瞠目の、傑作ミステリー」
この紹介文のとおり物語は、次の5エピソードで進行し、それぞれのエピソードが関連し絡み合っていく。
1.金で買えない物はないと思っている画廊のオーナーの戸田と新進の女性画家・志奈子。
2.空き巣のプロフェッショナル黒澤。
3.ある宗教団体の教祖が神であることを証明するために、その死体を切断する河原崎と塚本。
4.不倫相手と共謀して、不倫相手の妻を殺そうとする京子。
5.リストラされて野良犬の老犬と共に街をさすらう豊田。
それはまさによくできたパズルのようだ。
ネタバレになるので詳しくは書けないが、例えば不倫相手の妻を殺そうとする京子のエピソード。
彼女とその不倫相手は車で殺しにいく途中、誤って人をはねてしまう。
京子は事件を隠滅するため、死体をトランクに乗せて走る。
ところがこの死体が怖い。
走っているとトランクから飛び出すし、ある時にはバラバラに切断されてトランクから現れる。
挙げ句の果てには、トランクから這いだしてくる。
この死体の事件は決してオカルトが原因ではない。
こんなことが起こるのにもちゃんとした現実的理屈がある。
並行して描かれる他のエピソードとも関連している。
その他にもこんなエピソードの交錯がなされる。
泥棒の黒澤は河原崎の抱えている死体をエレベーターまで運ぶのを手伝う。黒澤はそれを死体ではなく、前後不覚の酔っぱらいだと思っている。
リストラされた豊田は郵便局に強盗に入るが、銃を構えると郵便局員が職場放棄していっせいに逃げ出す。普通は金庫の金を渡したり、通報の努力をするだろうと思うが、それをしない。そして、それをしない理由は実は別の所にある。
まさにジグソーパズル。
パズルの一片を入れると意味や絵が見えてくるように、小説のエピソード・一文が組み合わされて、ひとつの意味や物語が現れてくる。
そのエピソード・一文は個別では意味を持たないが、全体の中で見ると意味を持ってくる。
面白い小説形式だ。
映画では群像劇という手法があるが、作者の伊坂氏は「小説でしかできない群像劇をやりたかった」という。
すなわち、具体的にはこうだ。
先程も述べた泥棒の黒澤が死体を運ぶ河原崎に遭遇するシーン。
「隣人と顔を合わせるのははじめてで、思わず『隣の黒澤です』と間の抜けた自己紹介をしてしまった。若い男だった。二十代だろう。青白い顔をしていえて、夜通し酒でも飲んでいたのか、具合も悪そうだった。(中略)青年の方も驚いた顔をしていた。しばらく考える間があって、『そうだ、このドアを支えていてくれませんか?』と言ってきた。ドア? と首を傾げる。『友人が飲み過ぎちゃって、下まで背負っていかなくちゃいけないんです』青年は怯えているようだった。『このドア、手を離すとすぐに閉まっちゃうので、だから。支えてくれると助かるんですが』黒澤は肩をすくめた。無言のまま、言われるとおりにドアを支える」
青白い顔をしている青年は河原崎だが、小説は映像と違い、顔が見えないから読者には彼が死体を切断する河原崎とは分からない。
青年が青白い顔をしているのは死体を運ぼうとしているからだが、黒澤の視点で読んでいる読者は二日酔いのせいで「青白い顔」をしていると額面どおり見てしまう。
そして、ラストまで読んだ後に改めて読み直して見ると、青年が「怯えているようだった」のは、死体を運ぼうとしていたからだと分かる。
まさに小説でしか描けないパズルだ。
この作品は作者の伊坂氏がどの様に書いたかは分からないが、予測するに最初に5つの短編小説のプランがあったのではないか。現にこの作品で書かれた5つのエピソードにはそれぞれオチがついている。
伊坂氏はこの5つの短編をパズルのように再構成して、ひとつの世界を作った。
それにより物語が錯綜して、さらに面白い世界が生まれた。
小説は過去、様々な表現形式を模索してきたが、この作品もそのひとつ。
そして形式が作品を面白くする。
形式がテーマをインパクトのあるものにする。
これからも小説は様々な新しい形式を見せてくれるだろう。
楽しみだ。
その第2弾は「ラッシュライフ」伊坂幸太郎。
新潮文庫の100冊の紹介文はこう書かれている。
「未来は誰にもわからない。だから「今」を思い切り生きるんだ」
「父の自殺の衝撃から立ち直れない青年。職を失い家族にも見捨てられた中年男。失意のふたりは、自分でも気づかぬまま殺人事件に巻き込まれる。そこにクールな泥棒、殺人を企む女、歩くバラバラ死体までが登場。絶妙な偶然によって結びつけられた彼らを待つスリリングな展開、そしてその先に開ける思いがけない未来とは。絶望から希望へのあざやかすぎるドンデン返しに瞠目の、傑作ミステリー」
この紹介文のとおり物語は、次の5エピソードで進行し、それぞれのエピソードが関連し絡み合っていく。
1.金で買えない物はないと思っている画廊のオーナーの戸田と新進の女性画家・志奈子。
2.空き巣のプロフェッショナル黒澤。
3.ある宗教団体の教祖が神であることを証明するために、その死体を切断する河原崎と塚本。
4.不倫相手と共謀して、不倫相手の妻を殺そうとする京子。
5.リストラされて野良犬の老犬と共に街をさすらう豊田。
それはまさによくできたパズルのようだ。
ネタバレになるので詳しくは書けないが、例えば不倫相手の妻を殺そうとする京子のエピソード。
彼女とその不倫相手は車で殺しにいく途中、誤って人をはねてしまう。
京子は事件を隠滅するため、死体をトランクに乗せて走る。
ところがこの死体が怖い。
走っているとトランクから飛び出すし、ある時にはバラバラに切断されてトランクから現れる。
挙げ句の果てには、トランクから這いだしてくる。
この死体の事件は決してオカルトが原因ではない。
こんなことが起こるのにもちゃんとした現実的理屈がある。
並行して描かれる他のエピソードとも関連している。
その他にもこんなエピソードの交錯がなされる。
泥棒の黒澤は河原崎の抱えている死体をエレベーターまで運ぶのを手伝う。黒澤はそれを死体ではなく、前後不覚の酔っぱらいだと思っている。
リストラされた豊田は郵便局に強盗に入るが、銃を構えると郵便局員が職場放棄していっせいに逃げ出す。普通は金庫の金を渡したり、通報の努力をするだろうと思うが、それをしない。そして、それをしない理由は実は別の所にある。
まさにジグソーパズル。
パズルの一片を入れると意味や絵が見えてくるように、小説のエピソード・一文が組み合わされて、ひとつの意味や物語が現れてくる。
そのエピソード・一文は個別では意味を持たないが、全体の中で見ると意味を持ってくる。
面白い小説形式だ。
映画では群像劇という手法があるが、作者の伊坂氏は「小説でしかできない群像劇をやりたかった」という。
すなわち、具体的にはこうだ。
先程も述べた泥棒の黒澤が死体を運ぶ河原崎に遭遇するシーン。
「隣人と顔を合わせるのははじめてで、思わず『隣の黒澤です』と間の抜けた自己紹介をしてしまった。若い男だった。二十代だろう。青白い顔をしていえて、夜通し酒でも飲んでいたのか、具合も悪そうだった。(中略)青年の方も驚いた顔をしていた。しばらく考える間があって、『そうだ、このドアを支えていてくれませんか?』と言ってきた。ドア? と首を傾げる。『友人が飲み過ぎちゃって、下まで背負っていかなくちゃいけないんです』青年は怯えているようだった。『このドア、手を離すとすぐに閉まっちゃうので、だから。支えてくれると助かるんですが』黒澤は肩をすくめた。無言のまま、言われるとおりにドアを支える」
青白い顔をしている青年は河原崎だが、小説は映像と違い、顔が見えないから読者には彼が死体を切断する河原崎とは分からない。
青年が青白い顔をしているのは死体を運ぼうとしているからだが、黒澤の視点で読んでいる読者は二日酔いのせいで「青白い顔」をしていると額面どおり見てしまう。
そして、ラストまで読んだ後に改めて読み直して見ると、青年が「怯えているようだった」のは、死体を運ぼうとしていたからだと分かる。
まさに小説でしか描けないパズルだ。
この作品は作者の伊坂氏がどの様に書いたかは分からないが、予測するに最初に5つの短編小説のプランがあったのではないか。現にこの作品で書かれた5つのエピソードにはそれぞれオチがついている。
伊坂氏はこの5つの短編をパズルのように再構成して、ひとつの世界を作った。
それにより物語が錯綜して、さらに面白い世界が生まれた。
小説は過去、様々な表現形式を模索してきたが、この作品もそのひとつ。
そして形式が作品を面白くする。
形式がテーマをインパクトのあるものにする。
これからも小説は様々な新しい形式を見せてくれるだろう。
楽しみだ。