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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

恋 小池真理子

2006年09月11日 | 小説
 新潮文庫の100冊を読む。
 その第3弾は「恋」(小池真理子著)。
 紹介文はこう。

「微妙な関係の三角関係。だからこそ成立する恋愛だってあるのです」
「1972年冬。全国を震撼させた浅間山荘事件の陰で、ひとりの女が引き起こした発砲事件。当時学生だった布美子は、大学教授・片瀬と妻の雛子との奔放な結びつきに惹かれ、倒錯した関係に陥っていく。が、一人の青年の出現によって生じた軋みが三人の微妙な均衡に悲劇をもたらした……。全編に漂う官能と虚無感。その奥底に漂う静謐な熱情を綴り、小池文学の頂点を極めた直木賞受賞作」

 人と世界が完全に調和するということがあり得るのか?
 主人公・矢野布美子は、片瀬信太郎・雛子夫妻と過ごした時間がそうであったと考えている。
 「ローズサロン」という文学作品の翻訳に取り組む信太郎。
 英文科の大学生・布美子は、その下訳の手伝いをするために信太郎のもとでアルバイトする。
 当時は学生運動が真っ盛りの時期。布美子は、学生運動の闘士と同棲していたこともあり、優雅な信太郎と雛子の暮らしを「プチブル」だと思うが、次第にその暮らしに憧れを抱き、その一部になろうとする。
 布美子が信太郎夫妻の作る世界に調和していく瞬間だ。
 その後、布美子は片瀬夫婦の奔放な性に違和感を覚えつつも次第に取り込まれていき、こう思うようになる。
「私は雛子の性欲の強さを頼もしく羨ましく思った。それは純粋な誓約、まじりけのない肉欲だった。感情をまじえずに快楽を手に入れたいと望むことの、いったいどこが汚らわしいのだろう。雛子はその一点によって誰よりも清らかなのだ、と私は思った」
 夫以外の男と寝る雛子。そんな雛子の行動を信太郎は認めている。
 そこには嫉妬とか裏切りという感情はない。
 そんな世俗的なものは超越している。
 そんな片瀬夫妻の中に美を見出す布美子。
 彼女はこう思う。
「片瀬夫妻は、神がこの世にもたらした、またとなく美しい一匹の両性具有の獣であった」
 布美子は信太郎と雛子両方を愛している。
 そして歓喜の時。
 片瀬夫妻の軽井沢の別荘で、夏を過ごすことになった布美子は信太郎と体を交える。雛子はこの夫と布美子の行為に意を介さず、むしろ喜ぶ。信太郎と雛子の間にはさまれてベッドの上で眠る布美子。
 この瞬間、布美子は美しい両性具有の獣の一部となる。
 今までの灰色の生活と違い、すべてが輝いて見えてくる。
「その二週間は、私にとって二年であり二十年であり、さらに言えば永遠であった。毎日毎日、信じられないほどの美しい陽光があたりを包んでいた」

 こうした形而上学的とも言える3人の関係は世俗にまみれた私などの理解の及ぶところではないが、彼らの関係がすべてを共有しあった調和であることはわかる。
 しかし、この調和が崩れる。
 大久保勝也という青年が雛子の前に現れ、雛子が心奪われるのだ。
 布美子は、自分たち3人の調和を壊す大久保を憎み、懊悩の果て、ついに猟銃で殺してしまう。
 それは惨劇だった。
 布美子はとどめをさすため2発目を大久保に向けて撃とうとするが、誤って信太郎を撃ってしまう。
 大久保を守るため銃の前に立ちはだかる布美子。
 同じく雛子を守るため飛び込んできた信太郎。
 その信太郎の腰を布美子は撃ってしまうのだ。
 雛子は白目をむいて気絶し、信太郎は以後車椅子生活を余儀なくされる。

 人と世界が完全に調和するということがあり得るのか?
 この作品はこのテーマを布美子を通して描いている。
 大久保は調和する世界を壊す闖入者。
 布美子はそんな闖入者を撃つことで、調和が失われるのを防ごうとした。
 しかし、布美子が愛した「調和の世界」などはあり得るのだろうかと作者は問いかける。
 それは布美子の思いこみ、幻想であったかもしれない。
 人は青春のある時期、美しいものを信じたくなる。
 ある人を理想化し美化することで「美しい両性具有の獣」と見てしまうような思い。
 本当はその人は少し性に開放的なプチブルでしかなかったかもしれないのに。

 布美子はその後、刑に服し、釈放後、癌に犯され息を引き取る。
 片瀬夫妻との関係はもしかしたら自分の勝手な思いこみ、幻想だったのではないかと思いながら。
 というのは、事件後、布美子と片瀬夫妻の間には何の連絡もなく、出版された「ローズサロン」のあとがきには協力者として布美子の名がなかったからだ。
 この事件を報じたマスコミも布美子の形而上学的な思いなど理解せず、三角関係、四角関係がもつれた世俗的な事件として布美子の思いを引きずり下ろした。
 この作品を読む者は、ここに来て、布美子の思いが勝手な幻想だったのではないかと思えてくる。
 ちょうど、布美子の事件と時を同じくして起きた浅間山荘事件がひとつの幻想を葬った様に。
「彼ら(浅間山荘事件の当事者)は法を犯し、幾つもの命を犠牲にしながらひとつの時代を葬ったが、彼らとそれほど年齢の変わらなかった私もまた、同じように人を殺し、自分自身を葬った。ある種の幻想に浸っていられた時代……そんな時代を共に生き、共に私も終わった」

 そしてラスト。
「人と世界が完全に調和するということがあり得るのか?」という問いに対する答えが暗示的に描かれる。
 布美子が見たものは幻想だったのか、真実だったのか?
 そのラストは実に静かで感動的だ。
コメント
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