顔のないヒトラーたち
2015年10月04日 ハフィントンポスト日本語版
http://m.huffpost.com/jp/entry/8238418
第二次世界大戦終結から70年目にあたる今年、我々日本人にとっても重い問い
をつきつけるドイツ映画が公開された。本作品(原題 Im Labyrinth des
Schweigens=沈黙の迷宮の中で)は、1963年にアウシュビッツ裁判を実現さ
せた検察官たちの苦闘を克明に描く。この裁判は、ドイツ社会を「過 去との対
決」へ突き動かした重要な出来事だった。
映画の一場面から。ナチスの犯罪に関する資料の山に直面した主人公の検察官。
c 2014 Claussen+Wobke+Putz Filmproduktion GmbH / naked eye
filmproduction GmbH & Co.KG
現在のドイツでは、政府、司法、教育機関、メディアなどが一体となって、ユダ
ヤ人の大量虐殺などナチスの犯罪を糾弾し、若い世代に事実を伝 える努力を続
けて いる。ドイツの首相はことあるごとに被害国に謝罪し、犠牲者に追悼の意
を表する。2015年1月にアウシュビッツ解放70年目の追悼式典 で、ドイ
ツのヨハ ヒム・ガウク大統領は、「アウシュビッツについて思いを馳せること
なしに、ドイツ人のアイデンティティーはあり得ない」とまで言い切っ た。つ
まりこの国で は、ナチスの犯罪を批判し、被害者たちに謝罪することが、国是
となっている。
だが1950年代~60年代の西ドイツでは、ナチスの犯罪を糊塗したり、矮小
化しようとしたりする傾向が強かった。社会の非ナチ化は表 面的にしか行われ
ず、西ドイツの諜報機関や警察、外務省、法務省などには、元ナチス党員らが数
多く働いていた。
今日の若いドイツ人たちが、映画に描かれた50年代の西ドイツ社会を見たら、
「まるで別の惑星のようだ」と思うに違いない。それほど当時の 西ドイツで
は、ナ チスの犯罪に関しては「臭い物にフタ」という雰囲気が強かった。ナチ
スの犯罪を暴露する者は、「Nestbeschmutzer(巣を汚 す者)」と批判さ れた。
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映画の一場面から。c 2014 Claussen+Wobke+Putz Filmproduktion GmbH / naked
eye filmproduction GmbH & Co.KG
そうした時代の空気に抗して、映画にも登場する検事総長フリッツ・バウアーを
初めとする一部の検察官たちは、アウシュビッツ強制収容所の副 所長や医師ら
20 人を起訴し、法廷に引き出した。この内17人が殺人幇助などの罪で有罪
判決を受けている。バウアーはユダヤ人で、ナチスに迫害された経験 を持つ。
彼が映画 の中で語る「執務室を一歩出れば、敵だらけだ」という言葉は、過去
との対決を拒否していた当時の西ドイツ社会の雰囲気をよく表している。
この裁判の最大の意義は、アウシュビッツでの残虐行為の細部を初めて西ドイツ
社会に広く知らせたことである。それまで大半の西ドイツ人は、 アウシュビッ
ツで 何が起きていたかをほとんど知らなかった。フランクフルトで行われた裁
判では、収容所に囚われていた被害者たちが、ガス室による大量虐殺 や、親衛
隊員らに よる拷問、虐待の細部を証言し、メディアが連日報道した。アウシュ
ビッツ裁判は、虐殺に加担した犯罪者たちが戦後の西ドイツでビジネスマ ンや
役人として、 長年にわたり罪を問われずに平穏な暮らしを送っていた事実を
も、白日の下に曝したのだ。
その後、ナチス犯罪と批判的に対決する動きは、1968年の学園紛争、そして
1979年のテレビ映画「ホロコースト」の放映を通じて、 政府から教会、庶
民など社会全体を巻き込んだ運動に発展する。アウシュビッツ裁判はドイツの過
去との対決の原点なのだ。
西ドイツの連邦議会は、1979年に悪質で計画的な殺人については、時効を廃
止した。その最大の目的は、ナチスの犯罪に加担した人物が生き ている限り、
訴追 するためである。日本では連合軍が極東軍事裁判で戦争遂行に加担した軍
人や政治家を処刑したり禁固刑に処したりした。だが日本の司法当局 が日本人
を訴追し たことは一度もなかった。
これに対し、ドイツの司法当局はナチスによる虐殺に加担した人物に対する捜査
を、今も続けている。たとえば 2011年5月12日、ミュンヘン地方裁判所
は、当時91歳だったジョン・デミヤニュクに対し、ソビボール絶滅収容所の看
守としてユダヤ 人虐殺に加担した 罪で、禁固5年間の実刑判決を下した。
リューネブルク地裁では、アウシュビッツで事務作業を行っていた元親衛隊員
(94歳)に対する公判 が続いている。今 日のドイツの裁判所は、1950年
代よりも法律解釈を厳しくしており、ナチスの収容所で働いたことが立証される
だけで、殺人幇助と断定す る。
私は、1989年から過去との対決についての取材を続けている。映画に登場す
るような正義感に溢れた検察官たちを、インタビューしてきた。 たとえばルー
ト ヴィヒスブルクの「ナチス犯罪追及センター」の所長だったアルフレート・
シュトライム上級検事(故人)や、ハンブルク地方検察庁のヘル ゲ・グラビッ
ツ上級 検事(故人)は、一生をナチス犯罪の追及に捧げた検察官である。
彼らは「ナチスの犯罪に関する細部を知らなければ、ヒトラー体制の凶悪さは
理解できない」と語った。映画の中で、速記者の女性が、初めて被害者の証言を
聞いて涙を流すシーンがある。私もアウシュビッツから生還し た女性をインタ
ビューし、拷問による腕の傷痕を見た後は、涙が止まらなかった。その意味で、
ナチス犯罪の追及によって、ドイツ人の良心を呼び覚ました検 察官たちの功績
は 大きい。
ただし、生き証人が減っていく中、ナチス犯罪の追及は難しい。ドイツの司法当
局は1950年代からナチス関連の犯罪容疑者約10万 人に対して捜査を行っ
たが、その内有罪判決を受けたのは、約7000人にとどまる。「捕まるのは小
魚ばかり。人体実験を繰り返したヨーゼ フ・メンゲレなど の凶悪犯は摘発でき
なかった」という批判もある。
だがドイツ人がこうした歴史との対決を続けているからこそ、この国は旧被害国
の間で一定の信頼を回復することができた。もしもドイツが 歴史との対決を
怠っていたら、欧州連合の事実上のリーダーになることはできなかったに違いない。
今日、日独それぞれが持つ周辺諸国との関係には、大きな違いがある。ドイツ
は、周辺諸国との間で虐殺の犠牲者数や慰安婦の数をめぐる不 毛な論争は行っ
ていない。この映画は、日独の歴史に対する向き合い方の間になぜ違いがあるの
かについて、考えるきっかけも与えてくれる。
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『顔のないヒトラーたち』
出演:アレクサンダー・フェーリング、フリーデリーケ・ベヒト、アンドレ・シ
マンスキ、ゲルト・フォス ほか。
監督:ジュリオ・リッチャレッリ 脚本:エリザベト・バルテル、ジュリオ・
リッチャレッリ
製作:ヤコブ・クラウセン、ウリ・プッツ 撮影:マルティン・ランガー、ロマ
ン・オーシン
音楽:ニキ・ライザー、セバスチャン・ピレ
2014/ドイツ/123分/シネマスコープ/ドルビーSRD/DCP/提供・配給:
アットエンタテインメント PG-12
10月3日より、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開
(終り)