三島由紀夫の檄文われわれは戰後の日本が、經濟的繁榮にうつつを拔かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陷り、自ら魂の空白狀態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、權力慾、僞善にのみ捧げられ、國家百年の大計は外國に委ね、敗戰の汚辱は拂拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と傳統を瀆してゆくのを、齒嚙みをしながら見てゐなければならなか . . . 本文を読む
『吾妻鏡』によれば、1253年(建長5年)11月25日、建長寺の落慶供養が行われています。時頼が創建し蘭渓道隆を初代住職として招いています。
『吾妻鏡』です。「建長五年(1253)十一月小廿五日庚子。霰降る。辰尅以後小雨潅ぐ。建長寺供養也。丈六の地藏菩薩を以て中尊と爲す。又、同像千躰を安置す。相州殊に精誠を凝ら令め給ふ。去る 建長三年十一月八日 事始有りて、已に造り畢之間、今日梵 . . . 本文を読む
観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・15/27
十五、 女に七と三との苦ある事。乗仙僧都の事。
輔正記(法華経文句輔正記)に云、女に七の苦あり。一には形悪く生れ付たる事を苦に思ふなり。二には嫉妬の苦なり。夫が余所へ行くは心もとなく思ふなり。三、嫁姑のなかの悪しき苦なり。四には愚痴してさしてなきことを悔やむ苦なり。五にはものをいふ事多くしてもずのさへずる如くなり。我が . . . 本文を読む
以前NHKBsの「大戦国史」で、戦国時代にスペイン等がキリスト教によりアジア諸国を植民地化した姿が改めて浮き彫りにされていました。日本は秀吉・家康等の禁教令に依り辛うじてキリスト教から日本を護ることができましたが、明治維新以降は宗教的には戦国時代と同様の危険な状況が現出され、敗戦でさらに一層混迷の度を深めています。皇室にまで深くキリスト教が入り込んできています。
日本人は無宗教を表明することをイ . . . 本文を読む
今日は高野山八傑の一人尚祚入寂の日。尚祚は高野山心南院の学匠。高野山八傑の一人。字は覺體、または覺禅。気象俊徹、神手卓異、夙に覺海の室に入り、密教の奥義に到達。正智院道範と互に稟授請益する所あり。後に心南院を剏建して化を啓き、阿弥陀二像を安じ、密誦の外兼ねて浄行を修す。嘗て弥陀三昧を修するに行道衆忽ちに一人を増す。乃ち弥陀像なり。師曰く、二像の中いずれぞや、一像即ち一像を指す。爾来一尊を指佛といひ . . . 本文を読む
梁塵秘抄口伝「我(後白河法皇)、永暦元年(1160)十月十七日より精進を始めて、法印覺讚を先達にして、二十三日(熊野詣に)進発しき。二十五日むまやどの宿に、為保左衛門尉にてありしに、それがぐしたりし先達のゆめに此度参らせ給ふはうれしけれど、ふる哥をたばぬこそはおしけれと、見たる由を申す。元より王子にてはする事をばすなるに、御哥などはあるべき物をなどいふ者有しかど、餘り下臈がちにて、けんぞにやなど云 . . . 本文を読む
「吾妻鏡」
「建久三年(1192)十一月小廿五日甲午。白雲飛び散り。午以後霽に屬す。
早旦、 熊谷次郎直實 与 久下權守直光、 御前に於て一决を遂ぐ。是、武藏國熊谷と久下の境相論の事也。直實武勇に於て者、一人當千之名を馳せると雖も、對决に至りて者、再往知十之才に不足。頗に御不審を貽すに依て、將軍家、度々尋問令め給ふ事有り。時に直實申して云はく。『此の事、 梶原平三景時、直光を引 . . . 本文を読む
百練抄(康和五年(1103)十一月二五日)「公家高野大塔を(再建落慶)供養す。」
高野春秋にも「(康和五年癸未年)十一月二十九日。大塔落慶焉。御導師検校明算師」とあります。
壇上伽藍は正歴五年(994)の落雷で諸堂が焼失、寛治二年(1088)白河上皇が登拝、大塔再建の宣旨を下していました。 . . . 本文を読む