関西人にとって、特に大阪の人は、「梅田」が大阪の中心であると思っています。
しかし、その梅田は、JR大阪駅と同意語なのです。
地方の人にとっては、大阪駅と梅田はまったく別のところにあるように思っている方がおられるようです。
JR大阪駅の周辺には、地下鉄や私鉄の梅田駅がぐるりと囲んでいます。
大阪駅と呼ばれるのは、JRだけで、大阪市営地下鉄の御堂筋線の梅田駅、谷町線の東梅田駅、四ツ橋線の西梅田駅、そして阪神電鉄の梅田駅、阪急電鉄の梅田駅が狭い範囲に集中しており、こんなように狭い同じ地域に二つの呼び名があるのは、全国でもここだけだそうです。
これらの沿線の人は、大阪に行くというより、梅田に行くという方が多いようです。
なぜ、このような事態になったのでしょうか?
2009年2月23日現在の大阪駅北ビル建設 右は、同年5月30日現在
5月30日現在、大阪駅北ビルと大丸側を望む 同日、ヨドバシ側から望む
この事態を引き起こしたのは、明治2年の神戸・大阪間に鉄道を施設することから始まる大阪人と東京政府への反骨精神が生んだものなのです。
最近の大阪府の橋本知事が政府に噛みついているのと同じ構図が、この時からあったのです。
明治2年に大阪府判事の五代氏が大阪と神戸に鉄道敷設してほしいと政府に請願しますが、政府は、鉄道施設は政府が決めるものだからといって、一旦拒否します。
ここから、大阪人が政府に逆らう根源があるのです。
それでも、政府は、翌年明治3年に、地元の意見も聞かずに鉄道施設を決めますが、大阪人は面白くありません。
大阪駅が設置される場所は、煙をさけるため、大阪の中心部から離れた田んぼの中と決め、政府が施設する鉄道であるということで「大阪駅」と名づけました。
が、しかし、大阪人は、この「大阪駅」を、「梅田ステーション」と呼んで、「大阪駅」とは云わなかったそうです。
この大阪駅が出来た土地を「梅田」と呼ぶのは、当時の住所では、西成郡第三区七番組曽根崎村字天童という地名でしたが、この一帯はかって田んぼの中で、「田んぼを埋めた」ところから「埋め田」だったのが「梅田」という当て字をあてた別称で正式地名でも何でもなかったようです。
ちなみに現在の住所は、大阪市北区梅田3丁目1番1号。
2009.2.5現在の新北ビル
新北ビルは28階建てで、ここにはJR大阪三越伊勢丹が入ります。
政府に反発する大阪人の反骨精神は、その後も私鉄の大阪駅周辺に乗り入れる時にも発揮されます。
明治も中ほどになると、郊外に出来た私鉄が、大阪駅周辺に乗り入れる申請を政府に出しますが、利権を守りたい当時の大阪市長は、明治の初め鉄道施設を拒否された大阪が、逆に政府の力を利用して大阪市の利権を守ろうし、政府への反抗からか、私鉄に「大阪駅」と駅名をつけるのを拒否し続けます。
その結果、私鉄側は、大阪駅とはせず、「梅田駅」という呼称で申請し、現在に至っているのです。
大阪駅に最初に乗り込んできた私鉄は明治39年に阪神電鉄で、阪急は明治43年で、いずれもこの当時から「梅田駅」と呼ばれ、三つの地下鉄の駅名も「梅田」が使われ、あたかも政府が決めたJRの「大阪駅」を包囲しているように設置され、ここでも大阪人の気概がでているようです。
(この記事は、祥伝社黄金文庫、谷川彰英著、大阪「駅名」の謎を参考にさせて頂きました)