今、道州制が叫ばれています。
この「道州制」は、明治維新の「廃藩置県」に匹敵する大革命です。
「廃藩置県」が幕藩体制を解体させ中央集権制に移行させたのに対して、「道州制」は中央集権体制の解体を必然とする制度で、どちらも既得権の排除という難しい事象が伴います。
この難しい「廃藩置県」がなぜ成功したのか?
そして、廃藩置県が行われた当時は、3府302県あったのが、統廃合を重ねて、どうして今の1都1道2府43県になったのかを考えていきたいと思います。
そして、今県民性というのが言われていますが、これが藩体制とどう関わったのでしょうか?
もともと江戸時代には、藩という概念がなかったのですが・・・・・
過去の水彩画
2008年作 ”日吉神社のもみじ” F8号
「廃藩置県」というのは、明治4年(1871年)、明治政府が藩を廃止して、中央直結の府と県を置き中央集権体制を完成させた政治的な変革のことです。
明治2年(1869年)に「版籍奉還」が行われ、これは、諸大名から天皇への領地と領民の返還で、この時点で土地と人民は明治政府が所管すると言うことになったのですが、その後も、まだま封建的藩体制が実質的に続いており、これをなくするために行われたのが「廃藩置県」なのです。
「版籍奉還」は、まず薩摩、長州、土佐、肥後の4藩主が奉還し、他藩もこれにならい、明治政府は全国の支配権を手中に収め、藩主を藩知事に任命しました。
「廃藩置県」では、これまでの藩知事を東京に住まわせ、県には、政府から別の知事を送りました。
この時、3府302県ありましたが、1871年の末までに統廃合を行い、3府72県に減っています。
ともかく、廃藩置県が行われた背景には、藩の財政の困窮がありました。
多くの借金があった上に、 戊辰戦争で財政の破たんが追い打ちをかけ、藩から新政府に投げだしたとも思われる節があります。
ちなみに、摂津国は、江戸末期は、天領(旧豊臣家直轄地と廃藩になった茨城藩、中島藩、断絶した味舌藩)と高槻藩、尼崎藩、三田藩、麻田藩がありましたが、廃藩置県で大阪府、高槻県、尼崎県、三田県、麻田県、兵庫県になっています。