今まで、江戸時代について話をするときは、多くは江戸の町での話であって、江戸以外の土地での話はあまりなかったようです。
上方の話をするには、どうしても江戸との比較の話になります。
火事は江戸の華とも云われていますが、それでは上方では火事は少なかったのでしょうか?
上方、特に大坂は、江戸に比べて人家の密集はなく、大火の頻度もさほど高くなかったようです。
大火事が少なかった理由の一つに、屋根を「本瓦葺」にしたこと、反対に少なかったから「本瓦葺」にしたとも言えるのだそうです。
また、江戸の安普請に対して、堅固な家を建てるのが大坂の通例だったのも、上記の理由と同じです。
その中でも、堺商人は、堅固な上に絢爛豪華だったようです。
もともと、国際商業都市として潤って財政が豊かで、儲けた金を、家を建てることに費やすことが、堺商人の贅沢だったのです。
このような成金的な豪華な建物を「堺普請」と言われ、疎まれました。
それに対して京都では、「勘略葺」にするのが一般的で、やがて「京普請」といわれ、広がりました。
本瓦とは、平瓦を並べて 縦にできた継ぎ目に
丸瓦を並べる屋根の葺き方を言います。
江戸に火事が多い理由は、江戸の人口の6割を占めている町人が、江戸の土地の16%にひしめき、又その7割が「裏店住まい」だったのです。
そのため、江戸では、一たん火事が起こると、広範囲に及びました。
それも当時の長屋は、屋根が藁(わら)や茅(かや)で非常に燃えやすく、それは幕府が、瓦は贅沢であると見なしていたことも影響しています。
安普請の理由は、どうせ10年ぐらい経てばまた火事が起こるだろうという考えが家主にあったとも云われています。
文字通り、「火事と喧嘩は、江戸の華」だったようです。