平安時代以降、難波津がすたれ、大阪は政治の中心から離れますが、戦いの舞台として登場します。
水上、陸上の交通が集まった所であり、源平の合戦や南北朝の内乱、さらには戦国時代にも戦いの舞台として脚光を浴びます。
1496年(明応5年)、本願寺8世 蓮如が「摂州東成郡生玉之庄内大坂」に寺院を建て、その境内には商人などが住む「寺内町」がつくられました。
いわゆる「石山本願寺」で、これが、大坂の町の誕生と言われています。
「石山本願寺」の想像図 石山本願寺 推定地にある碑
今の大阪城は、この「寺内町」あたりにあったのですが、本願寺と織田信長との戦いで消滅しました。
その後、ここに豊臣秀吉が大阪城を建て、新たに新しい城下町が建設されました。
現在大阪の町になっているところは、上町台地などを別にすれば、戦国時代頃までは、低湿地だったところがほとんどです。
秀吉は、そこに東横堀川・西横堀川・天満堀川などの水路を掘らせ、水はけを良くし、掘り上げた土で周囲を土盛りして低湿地を人が住めるようにしました。
江戸時代になると、西の湿地のほうにも沢山の堀川が掘られました。
その堀川は、水路としてたくさんの船が行き来し全国からの物資を運び、堀川は今の道路の役目をして、これが水の都と言われる所以です。
その水路を利用して、北海道や江戸と畿内を結ぶ北前船や樽廻船だけでなく、京都や奈良へは淀川や大和川を伏見舟や三十石舟が行き交い、大阪は経済都市として、水の都として活況を呈しました。
そして、この水の都が、「天下の台所」と言われることになります。
それについては、後日に・・・・